Amazonプライム・ビデオで配信中の自動車番組「The Grand Tour」でおなじみのジェレミー・クラークソンが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。

今回紹介するのは、ヒュンダイ i10の試乗レポートです。



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ローマ中心部を運転していると心が高揚する。ローマは常に殺伐としており、信号機は交通秩序維持のためではなく、争いの手段として設置されている。あえて赤信号で止まるのは、次の青信号で他の車より速く走れることを誇示するためだ。

おかげでローマには活気がある。気迫がある。朝の通勤すらも楽しむことができる。ローマでの運転に停滞という概念は存在しない。

ローマでは駐車すらも楽しい。どこでも駐車することができる。少しでも隙間があれば、バンパーを活用して駐車スペースを広げることができる。あるいはそんなことをしなくても、どこでも好きな場所に駐車することができる。

駐車監視員に警戒する必要もない。彼らは店のガラスを見て身だしなみを整えるのに夢中で、車など見ていない。イタリアの駐車監視員が持っているハンドバッグはフェンディだ。話を盛っているわけではなく、歴とした事実だ。

運転が楽しいのはローマだけではなく、イタリア国内ならどこでもそうだ。最高のドライブとは、アルファ ロメオ・スパイダーでアマルフィ海岸を駆け、崖の上のレストランでブルスケッタを食べることだろう。太陽は燦々と輝き、助手席にはヘッドスカーフを巻いたクラウディア・カルディナーレが座っている。

だからこそ私はイタリア車を愛している。見た目の悪いランチア・デドラやフィアット・クロマすら、そのDNAのどこかに車の理想が詰まっている。水曜日の夕方、テールランプに溢れるイギリスの北部環状道路を運転していても、イタリア車なら酸っぱいトマトの味を思い出し、ポルトフィーノにいるような気分を味わうことができる。

できることなら、すべての車作りをイタリア人に任せたい。イタリア人の心の中には、静粛という概念とは無縁の活力溢れるツインカム精神が宿っている。以前、ランボルギーニの偉い人と話したとき、こんなことを言っていた。
もし私が(親会社であるフォルクスワーゲンに)電気自動車を作ることを強制されたら、自殺するかもしれません。

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こういう考え方をするイタリア人は彼ばかりではない。この時代に、フィアットすらも電気自動車を販売していない。さすがに発売予定の電気自動車はあるのだが、きっとフィアットは不本意に思っていることだろう。

しかし、残念ながらイタリア人には私同様に協調性がない。イタリア以外の国の自動車メーカーは、子供を安全かつ経済的に学校に送迎するための道具として自動車を作っており、また地球環境のことを第一に考えるようになってきている。美しいから、心躍るから車を買うという時代は終わった。我々が気にしているのはコネクティビティと自動運転だけだ。

今求められているのは、宇宙技術を使って交通状況を把握し、最善の道順を案内してくれるナビゲーションシステムだ。ただし、その案内に従うと未舗装路どころか川の中まで走らされてしまう。指示通りに裏路地へと進んでいくと数百メートルごとにスピードバンプに苦しめられる。

先日使ったナビは、開発した無能にしか理解できない理屈によってM4を迂回し、14世紀の世界を走ることを強制してきた。対向車(自動車ではなく牛車)を避けるために1時間ほどバックしつづけ、まったくもって馬鹿げていると感じた。

あえて高速道路を迂回する理由などどこにあったのだろうか。きっとそんなものはないのだろう。先日、ベルリンのアーティストが99台の携帯電話を載せた台車を引いて歩き回る映像を見た。この行動により、Google Mapsには渋滞が起きていると表示された。

これこそ、我々が直面している現実だ。声だけ大きな暇な狂人がインターネットを使って世界を変容させようとしている。車こそが悪であるという彼らの固定観念を周りにも植え付けようとしている。

もちろん、実際に周りに迷惑をかけているドライバーもいるのだが、インドよりはましだろう。インドでは渋滞に引っかかると車が動き出すまで延々とクラクションを鳴らし続ける。ボンベイ、もといムンバイの状況はかなり悪く、信号機に騒音計を取り付けてクラクションが鳴り止むまで信号を変えないシステムが誕生した。

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当初、ドライバー達は怒って従来以上にクラクションを鳴らしたのだが、しばらくすると静かにしないと前に進めないということに気づいた。毎年ロンドンに押しかけ、スーパーカーを乗り回しているアラブ人に対しても似たようなことが行われるかもしれない。

今や、車を乗り回すことなど許されない。アマルフィ海岸をクラウディア・カルディナーレと一緒にドライブするという行為も、ほとんどのイギリス人が許さないだろう。彼らはきっと「バスを使うべきだ」と主張するはずだ。しかしバスにロマンスなど存在しない。

バスに乗ることを夢見る人間などいない。なぜなら、バスに乗ってもまったく楽しくないからだ。バスでベルリンまで行き、他人の不幸のために大量の携帯電話を引きずり回すような人間が世界に溢れるようになったらどうなるだろうか。

私はそんな現実のことなど忘れ、来週末はアルファ ロメオのクアドリフォリオでスコットランドまで行き、インヴァネスからアラプールまでドライブしようと思っている。丘を越えると、遥かに続く道はうねる地平線の彼方に消えている。その先に待ち構える歓びを思うと、心が熱狂する。バスではそんな感情は抱けない。

しかしそろそろ現実に戻り、今回の本題の話をしなければならない。新型ヒュンダイ i10だ。もし12,495ポンド払ってヒュンダイの小型車が欲しいなら、i10が理想的だ。i10に特に大きな欠点などないのだが、単に便利で信頼性の高い移動手段が必要なら、短距離ならUberを使ったほうがいいし、長距離なら鉄道を使ったほうがいい。

これこそ、i10のような車の問題点だ。魂のない道具として、ナビと自動ブレーキの付いた白物家電として売られる車ばかりになれば、いずれ人々は車を所有すること自体をやめ、より安価で楽な移動手段を選ぶようになるだろう。