Amazonプライム・ビデオで配信中の自動車番組「The Grand Tour」でおなじみのジェレミー・クラークソンが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。
セアトから新型タラコが登場した。もし大地震があれば、崩れ落ちるレンガから身を守るためにタラコに乗り込むだろう。傘を持っていないときに豪雨に見舞われてもタラコに乗り込むだろう。しかし、車としてタラコに乗りたいかと言われたら、それどころか、ただ座って休憩するためにタラコに乗りたいかと言われても、答えはノーだ。
何年も前、昔々のTop Gearでヴォクスホール・ベクトラのレビューを頼まれたのだが、コメントすべき言葉がまったく思い浮かばなかった。そんな状況が再び発生した。セアトは単に退屈なだけではない。犯罪的に退屈だ。ジェーン・オースティンや数学と同等の退屈さだ。しかも、タラコとまったく同じ車であるシュコダ・コディアックよりも約3,000ポンド高い。
シュコダの親会社でもあるフォルクスワーゲンがセアトを買収したのはイビサ島のラウンジミュージックの要素を車に与えたかったからだ。しかし、そんな要素はタラコには存在しない。タラコに乗ると、机の下に座っているような気分になる。なので、もし退屈な7シーターが欲しいなら、シュコダを購入するべきだろう。
セアトの話は終わりにして、もう少し面白い話をしたいのだが、次の話もさして面白いものではない。
初代BMW X5が登場したとき、BMWの社員たちは「究極のドライビングマシン」を謳う自動車メーカーのショールームに巨大で重い車が並ぶことをさぞ残念に思ったことだろう。
それでもBMWは走行性能確保のために最大限の努力をし、クリス・ホイの太腿よりも太いタイヤを装着した。その結果、接地面積がヘクタール単位になったので、それなりにまともな走りを実現した。誇張抜きでまともに飛ばすこともできたし、ゴール直前のアマチュアマラソン選手の脚のように震えるようなこともなかった。
しかしそれも昔の話で、今やBMWは最後の晩餐にガソリンを摂取したがるような人間のためのメーカーなどではなくなり、X2やX3などの悲惨な車が続々と登場している。今のBMWは数ある自動車メーカーのひとつに過ぎない。もちろん、魅力的な車も作っているのだが、今のBMW車のほとんどはワイパーの付いた白物家電に他ならない。
例えば、新型Z4を例に挙げてみよう。開発陣はドイツ的なスーツを着用し、ドイツ的な計量方法を使い、最高の重量配分を実現するためにはどこにエンジンを搭載すべきかを、ターボラグを最小限に抑えるためにはどうすべきかを検討したわけではない。彼らは単にトヨタに電話をかけ、割り勘を申し出ただけだ。
X6という車もある。この車は自分の顔よりも大きい腕時計を着用するような人のための車だ。この車は運転手が馬鹿であるということを喧伝するためだけの車だ。
そしてここからが新型X5の話だ。新型X5にはクリス・ホイのタイヤなど装備されていない。そんなタイヤを装備すれば転がり抵抗がとんでもないことになり、ホッキョクグマの家が溶けてなくなってしまう。
その代わり、新型X5には巨大なフロントグリルが装備されている。つまり、この車は10km先からでも「俺はBMWだ!」と主張することができる。実際、それは嘘ではない。
私が乗ったモデルには265PSの3Lのツインターボディーゼルエンジンが搭載されていた。キアやフォルクスワーゲンなら、車両重量2トンの車であってもこの性能で必要十分だろう。しかしBMWなら話は別だ。アクセルを踏み込むとちゃんと加速はするのだが、決してその加速は心には響かない。
操作性に関しては、ちゃんと曲がり角で曲がることができる。制動性能に関しても、ちゃんと信号で止まることができる。しかし、この車にはまったく特別感が存在しない。運転していて気になるのは、たまに鳴る謎の警告音だけだ。
私は電子工学の専門家ではない。私がInstagramにストーリーを投稿しようとすればロンドン西部が停電してしまうだろう。しかし、そんな私にも分かることがある。X5の電装系は数分ごとに再起動しなければまともに作動しない。これはX5の重大な欠点だ。
あるいは、単に装備が過剰なだけなのかもしれない。この車はウインカーを出さずに車線から出ることを許してくれない。車が間違いだと判断したら、ドライバーのステアリング操作を拒絶することもある。
こういった余計なシステムをオフにするためには超複雑なメニューを掘っていかなければならず、運転中に眼鏡を取り出し、コンピューターとマウスを使って細かい操作を行わなければならない。
助手席に乗せた人がジェスチャーを交えながら会話をしてしまうと、勝手にオーディオの音量が上下してしまう。センターコンソールに電話を置いてしまうと、ナビが問答無用でApple CarPlayの画面に変わってしまう。
キーを使うと車から離れていてもエアコンの操作をしたり燃料残量の確認をしたりすることができる。一見すると便利そうにも思えるのだが、1970年代のテレビセットをポケットに入れて持ち歩いているような感じがする。
無尽蔵に存在する電子装備を見ていると(言及していない装備の中には、試乗車にオプション装備されていた15,000個もの天井のライトまである)、BMWが最新のギミックを未完成だろうが気にせず可能な限り載せまくったようにしか思えない。その結果、中心となるコンピューターが定期的に休息しなければならなくなってしまったのかもしれない。
聞いた話では、ドア部分の電装系が動かなくなった個体もあるらしい。ミラーも、窓も、鍵も、すべて動かなくなったそうだ。こんなことが起これば相当困るだろう。
従来のBMWオーナー達が望んでいるのは、ジェスチャーコントロールやApple CarPlayに疲弊させられるという体験などではないはずだ。BMWのオーナーは古臭いアナログを愛する人間たちだ。彼らが欲しているのは自動で位置を調節してくれるシートベルトなどではない。
設計的欠陥がこれほど多い車に乗ったのはかなり久しぶりだった。普通、車のレビューなど結局は好みがどうかでしかない。「優秀な車だけど、シフトレバーの形状が気に入らない」と車をこき下ろすようなものだ。ところが、X5は車全体がまともな設計ではない。ただしシフトレバーは別だ。シフトレバーだけは気に入った。
ガソリン仕様車はもう少しパワフルだし、音も良いのだろうが、運転中に常に意思に反して動くステアリングと格闘しなければならないため、家に帰る頃には疲弊しきっていることだろう。
タラコとX5に続けざまに乗ることで、私は生きる意志を失いかけてしまった。しかし、それからイタリアに行って新しい4WDのアルファ ロメオ・ジュリアを運転した。ジュリアは降りたくないと思える車だった。
今回紹介するのは、BMW X5 xDrive30d(日本名: xDrive35d)のレビューです。
セアトから新型タラコが登場した。もし大地震があれば、崩れ落ちるレンガから身を守るためにタラコに乗り込むだろう。傘を持っていないときに豪雨に見舞われてもタラコに乗り込むだろう。しかし、車としてタラコに乗りたいかと言われたら、それどころか、ただ座って休憩するためにタラコに乗りたいかと言われても、答えはノーだ。
何年も前、昔々のTop Gearでヴォクスホール・ベクトラのレビューを頼まれたのだが、コメントすべき言葉がまったく思い浮かばなかった。そんな状況が再び発生した。セアトは単に退屈なだけではない。犯罪的に退屈だ。ジェーン・オースティンや数学と同等の退屈さだ。しかも、タラコとまったく同じ車であるシュコダ・コディアックよりも約3,000ポンド高い。
シュコダの親会社でもあるフォルクスワーゲンがセアトを買収したのはイビサ島のラウンジミュージックの要素を車に与えたかったからだ。しかし、そんな要素はタラコには存在しない。タラコに乗ると、机の下に座っているような気分になる。なので、もし退屈な7シーターが欲しいなら、シュコダを購入するべきだろう。
セアトの話は終わりにして、もう少し面白い話をしたいのだが、次の話もさして面白いものではない。
初代BMW X5が登場したとき、BMWの社員たちは「究極のドライビングマシン」を謳う自動車メーカーのショールームに巨大で重い車が並ぶことをさぞ残念に思ったことだろう。
それでもBMWは走行性能確保のために最大限の努力をし、クリス・ホイの太腿よりも太いタイヤを装着した。その結果、接地面積がヘクタール単位になったので、それなりにまともな走りを実現した。誇張抜きでまともに飛ばすこともできたし、ゴール直前のアマチュアマラソン選手の脚のように震えるようなこともなかった。
しかしそれも昔の話で、今やBMWは最後の晩餐にガソリンを摂取したがるような人間のためのメーカーなどではなくなり、X2やX3などの悲惨な車が続々と登場している。今のBMWは数ある自動車メーカーのひとつに過ぎない。もちろん、魅力的な車も作っているのだが、今のBMW車のほとんどはワイパーの付いた白物家電に他ならない。
例えば、新型Z4を例に挙げてみよう。開発陣はドイツ的なスーツを着用し、ドイツ的な計量方法を使い、最高の重量配分を実現するためにはどこにエンジンを搭載すべきかを、ターボラグを最小限に抑えるためにはどうすべきかを検討したわけではない。彼らは単にトヨタに電話をかけ、割り勘を申し出ただけだ。
X6という車もある。この車は自分の顔よりも大きい腕時計を着用するような人のための車だ。この車は運転手が馬鹿であるということを喧伝するためだけの車だ。
そしてここからが新型X5の話だ。新型X5にはクリス・ホイのタイヤなど装備されていない。そんなタイヤを装備すれば転がり抵抗がとんでもないことになり、ホッキョクグマの家が溶けてなくなってしまう。
その代わり、新型X5には巨大なフロントグリルが装備されている。つまり、この車は10km先からでも「俺はBMWだ!」と主張することができる。実際、それは嘘ではない。
私が乗ったモデルには265PSの3Lのツインターボディーゼルエンジンが搭載されていた。キアやフォルクスワーゲンなら、車両重量2トンの車であってもこの性能で必要十分だろう。しかしBMWなら話は別だ。アクセルを踏み込むとちゃんと加速はするのだが、決してその加速は心には響かない。
操作性に関しては、ちゃんと曲がり角で曲がることができる。制動性能に関しても、ちゃんと信号で止まることができる。しかし、この車にはまったく特別感が存在しない。運転していて気になるのは、たまに鳴る謎の警告音だけだ。
私は電子工学の専門家ではない。私がInstagramにストーリーを投稿しようとすればロンドン西部が停電してしまうだろう。しかし、そんな私にも分かることがある。X5の電装系は数分ごとに再起動しなければまともに作動しない。これはX5の重大な欠点だ。
あるいは、単に装備が過剰なだけなのかもしれない。この車はウインカーを出さずに車線から出ることを許してくれない。車が間違いだと判断したら、ドライバーのステアリング操作を拒絶することもある。
こういった余計なシステムをオフにするためには超複雑なメニューを掘っていかなければならず、運転中に眼鏡を取り出し、コンピューターとマウスを使って細かい操作を行わなければならない。
助手席に乗せた人がジェスチャーを交えながら会話をしてしまうと、勝手にオーディオの音量が上下してしまう。センターコンソールに電話を置いてしまうと、ナビが問答無用でApple CarPlayの画面に変わってしまう。
キーを使うと車から離れていてもエアコンの操作をしたり燃料残量の確認をしたりすることができる。一見すると便利そうにも思えるのだが、1970年代のテレビセットをポケットに入れて持ち歩いているような感じがする。
無尽蔵に存在する電子装備を見ていると(言及していない装備の中には、試乗車にオプション装備されていた15,000個もの天井のライトまである)、BMWが最新のギミックを未完成だろうが気にせず可能な限り載せまくったようにしか思えない。その結果、中心となるコンピューターが定期的に休息しなければならなくなってしまったのかもしれない。
聞いた話では、ドア部分の電装系が動かなくなった個体もあるらしい。ミラーも、窓も、鍵も、すべて動かなくなったそうだ。こんなことが起これば相当困るだろう。
従来のBMWオーナー達が望んでいるのは、ジェスチャーコントロールやApple CarPlayに疲弊させられるという体験などではないはずだ。BMWのオーナーは古臭いアナログを愛する人間たちだ。彼らが欲しているのは自動で位置を調節してくれるシートベルトなどではない。
設計的欠陥がこれほど多い車に乗ったのはかなり久しぶりだった。普通、車のレビューなど結局は好みがどうかでしかない。「優秀な車だけど、シフトレバーの形状が気に入らない」と車をこき下ろすようなものだ。ところが、X5は車全体がまともな設計ではない。ただしシフトレバーは別だ。シフトレバーだけは気に入った。
ガソリン仕様車はもう少しパワフルだし、音も良いのだろうが、運転中に常に意思に反して動くステアリングと格闘しなければならないため、家に帰る頃には疲弊しきっていることだろう。
タラコとX5に続けざまに乗ることで、私は生きる意志を失いかけてしまった。しかし、それからイタリアに行って新しい4WDのアルファ ロメオ・ジュリアを運転した。ジュリアは降りたくないと思える車だった。
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