Amazonプライム・ビデオで配信中の自動車番組「The Grand Tour」でおなじみのジェレミー・クラークソンが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。

今回紹介するのは、2003年に書かれたケータハム・セブン ロードスポーツSVのレビューです。


Seven SV

先々週、猛暑の中、私は8時に仕事を終えて車を走らせた。A40の高架下にある信号を右に曲がると私のマンションに行くことができる。

マンションは灼熱の箱になっているだろう。しかも、夜になるとパトカーがウェストボーン・グローブで一晩中サイレンの耐久試験をするため、眠ることすらできない。

左に曲がると静かなコッツウォルズに行くことができる。そこには私の家族が待っている。そこなら麦が風に揺られる音やキツネの足音以外に私の睡眠を妨げるものもない。なので私は左に曲がることにした。

この選択は正しかった。40分もすると太陽が真っ赤に染まり始めた。空は見事に澄み渡っていた。SLのアクセルを踏み込むと狂気的な音が響き渡る。コーナーのたびにブレーキを強く踏み、1段、2段、場合によっては3段落とす。そしてコーナーを抜けた瞬間、再びアクセルを踏み込んだ。

道路は十分に温まっており、タイヤはしっかりと路面を掴んだ。新品のミシュランは無風状態の水上スキーのように道路に切り込んでいった。スーパーチャージャー付きのV8エンジンからは圧倒的なパワーとトルクが、そして見事なスタッカートの歌声が生み出された。

こんな状況ではどんな男でも興奮するだろう。太陽が地平線とキスをしはじめた頃、私はこう思った。
このあと事故って死んだとしても、きっと幸せな最期になるだろう。

最高の帰路だった。私と愛車が見事なハーモニーを奏でた。それどころか、車と人間、禁断の愛に溺れさえした。これこそ、純粋で純情な運転の歓びだ。

しかし、実のところこんなのは純粋でも純情でもない。私のSLと私の間には何百万ギガバイトものシリコンが介在している。ブレーキを補助するシステム、コンピューター制御のエアサスペンション、トラクションコントロール、パワーステアリング、フライ・バイ・ワイヤのスロットル。

私が運転しているのは車というよりむしろ車の複製品だ。本物の車のように走り、止まり、音を響かせる。けれど、私が愛したのはただのホログラムだ。

現代の車は道路とドライバーを隔絶させる。ベロアとRadio 2とエアコンに囲まれた安全で静かな世界にドライバーを格納する。

今のオープンカーに乗っても本物の風など入ってこない。入ってくるのはフランクフルトの技術者が生み出した微風だけだ。5,000rpmで聞こえてくる美しい音色はシュトゥットガルトの音響スタジオで技術者が設計したものだ。今の車は言うなればマトリックスだ。

私はキアヌ・リーブスにはなれなかった。なぜなら、身長196cmの私はケータハム・セブンに乗れなかったからだ。

しかし、小人ではなく完全な人間にも乗ることができる大型版ケータハムが登場した。私は先週、その車に乗ることができた。

ただ大きいだけでなく、パフォーマンスも向上している。パワーウェイトレシオは驚異の448PS/tで、この数字に近付ける車など公道には存在しない。例えば、フェラーリ 575はわずか302PS/tだし、ランボルギーニ・ムルシエラゴでも323PS/tだ。

最初、それほどパワーは感じない。しかしそれは音や振動に耐えられずにシフトアップしてしまうからだ。それは間違っている。耳から血が流れ、足首から下がもげてからシフトアップすればいい。そうすればこの車のパワーを体感することができる。

自分の車がどんな車であろうと、この車に乗れば圧倒的なパワーに驚くはずだ。実際、私もそうだった。

実際にサスペンションの動きを見ることもできる。ブレーキの動きも見ることができる。ステアリングを回せばそれに連動して目の前のタイヤも回転する。この車に比べれば歩行者くらい遅いランボルギーニやフェラーリとは違い、白線ぴったりに駐車することができる。

こういった車は自分の手足の延長のように扱えるものと思っていたのだが、実際はまったく正反対の感覚だった。まるで私が車の一部になったかのように感じられた。

普通の車の場合、どこかに移動するために使う。場合によっては移動を楽しむこともできる。けれど、ケータハムの場合、移動手段として使うことはできない。ドライバーは乗客などではない。ドライバーは操作という仕事をするだけだ。ピストンやワイパーと同じく、車の部品のひとつでしかない。

この車の挙動はすべて必然だ。そこには白衣を着たドイツ人など介在しない。音を生み出すのはマーケティング部門などではない。

この車のことは好きになれなかった。そもそも、私が部品として車にフィットしていなかった。ステアリングが太腿のすぐ上に来ていたのでまともに操作ができなかった。

それに、ケータハムから送られてきたキットを自分で組み立てて車を作らなければならなかった。こうすることで騒音規制や安全規制、環境規制を回避できるそうだ。素晴らしい発想だとは思うのだが、私は自分の組み立てたものなどまったく信頼できない。運転中は常にステアリングが外れないかハラハラしていた。

しかし、ケータハムが好きになれなかった最大の理由は、キャンプに似ていたからだ。そもそもルーフの見た目が最悪だし、このルーフを設計したのはおそらくアウトドア好きだろう。テントの薄い布越しに雨が降っていても気にしないような人間のはずだ。

ケータハムを運転する際には服装にも気を使わなければならない。ちょっとした移動をするだけでも事前にアウトドアショップに行かなければならない。毛糸の帽子とジャンパーを着込まなければ運転などできない。

昨年、妻が愛車のケータハムでA.A.ギルを駅まで送ったことがあるのだが、彼はのちにそれが人生最悪の5分間だったと語っている。

我々は自動車の本当の姿から隔絶されて生きてきた。ケータハムはその真の姿を追い求め過ぎた結果、道を外してしまった。趣味の世界ではよくあることだ。

釣りは誰でも楽しむことができる趣味だ。しかし、朝の3時に起き、雨の中、夜になるまでひたすら待ち続けることを楽しめる人などほとんどいない。これがケータハムだ。

コンコルドが飛んでいれば誰でも空を見上げるが、わざわざオリンピック航空のボーイング737を見るためにギリシャまで行くような人間はほとんどいない。これがケータハムだ。

私はモータースポーツが好きだが、マーシャルになりたいとは思わない。切手の良さは分かるが、アルバムを作ろうとは思わない。音楽は好きだが、自分で楽器を作ろうとは思わない。同様に、私は運転することが好きだが、究極のドライビングマシンに乗りたいと思うほどの熱意はない。