Amazonプライム・ビデオで配信中の自動車番組「The Grand Tour」でおなじみのジェームズ・メイが2008年に英「Telegraph」に寄稿した「醜い車」をテーマとしたコラム記事を日本語で紹介します。


Impreza

ご存じないかもしれないが、ロンドンにはわざわざ醜い人たちばかりを集めたモデル事務所がある。所属するモデル全員が不細工だ。

意味が分からないかもしれないが、商業的にちゃんと理に適っている。当然ながら、世間に存在する不細工の存在は無視することなどできず、映画業界などで確実に需要が存在する。

ヴィクトリア時代なら、彼らは見世物小屋で鎖に繋がれ、中流階級の笑い種になっていただろう。しかし自由主義の現代なら、アグリー・モデル・エージェンシーのおかげで、観客の反応に不快になりながらも、少なくとも給料は得ることができる。それは進化だ。

実のところ、大半の人間はどちらかといえば「平凡」に分類される。「本物の不細工」は「本物の美」と同じくらい貴重だ。なので、美しい人間だけでなく、醜い人間にも光を当てたほうがいいだろう。

というわけで、今回は醜い車について語りたいと思う。テレグラフ紙では「醜い車」について読者投票を募った。これについて少し考察してみることにしよう。

編集部のサイモン・アロンが言っていたのだが、多くの票を獲得した車の中には、単に見た目が悪いわけではなく、信頼性の低さや性能の低さが理由で悪い印象が募った結果、「醜い車」として認識されるようになった車が何台かあるそうだ。それも一理ある。

例えば、オースチン・プリンセス(そして後に登場した改良版のアンバサダーも)の見た目は決して醜くなどない。確かに車の完成度は酷かったのだが、見た目自体は生理的嫌悪感を抱くほどではない。

そういった車は他にもある。モーリス・マリーナ、オースチン・アレグロ、トライアンフ・TR7、ジャガー・XJ-S。そして、ラーダ・1200もこの括りに入るだろう。フィアットのモデルとしてはむしろ魅力的な車だった。ところが、イギリスの共産主義運動により完成度の低い低価格車が求められるようになった。

Triumph Mayflower
トライアンフ・メイフラワー

ところで、私の愛車のポルシェに投票してくれた人に言っておこう。ありがとう。

不名誉にも多くの票を得た車の中には、説明が難しい車もある。ルノー・4は決して醜い車ではないし、かといってつまらない車でもない。ロールス・ロイス カマルグも醜い車ではない。カマルグの顔はパグのようなのだが、それでもちゃんとした紳士らしさがある。

アストンマーティン・ラゴンダやBMW 6シリーズは個性的(ここでは褒め言葉として使っている)だし、シトロエン・アミ8には他にはない、箱詰めされたカエルのような特徴があった。特徴があるのは平凡よりはずっとましだ。

私が好きな車の中にも得票の多かった車が何台かあった。アルファ ロメオ SZに票を入れた間抜けもいる。本気でこの車の良さが分からないとでも言うのだろうか。それに、つい先日購入したばかりのダットサン・120Y(日本名: B210型サニー)にも票が集まっていた。

私自身、醜い車についてはずっと考えている。私自身が考える醜い車リストは何なのだろうか。思うに、私が思う最も醜い車は、センスも判断能力も存在しない人間が作り出した1949年生まれのトライアンフ・メイフラワーだ。

フォード・エドセルはノーズが残念だ。AMC ペーサーはリアが残念だ。しかし、メイフラワーはその根源からすべてが醜い。

耐えられるものなら、じっくりと眺めてみてほしい。ディテールは醜いし、全体的なプロポーションも醜いし、自分のことをピルグリム・ファーザーズの子孫であると信じてやまないアメリカ人向けに作ったというコンセプトには背筋が凍る。私自身はメイフラワーを運転したこともないのだが、この車の走りにも魅力など存在しないと自信を持って断言できる。

ちなみに、アグリー・モデル・エージェンシーのくだりが嘘だと思うなら、インターネットで調べてみるといいだろう。私がどうしてこんな会社を知っているのかというと、以前に雑誌の撮影でこの会社にモデルの手配を頼んだからだ。撮影にやってきたのはスバル・インプレッサのような顔をした太った男だった。それはもう醜かった。