Amazonプライム・ビデオで配信中の自動車番組「The Grand Tour」でおなじみのジェレミー・クラークソンが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。

今回紹介するのは、ブガッティ・シロンのレビューです。


Chiron

何年か前にサンデー・タイムズでブガッティ・ヴェイロンのレビュー記事を書いたのだが、その際、私はヴェイロンを絶賛した。380km/hを超えるような超高速域において走行安定性を確保することがいかに難しいかを、そしてこの速度域では空気がいかに危険で厄介な存在になるのかを説明した。

風速380km/hの風はニューヨーク中のありとあらゆる建造物を破壊し尽くす。通り過ぎた場所すべてを壊滅させる。しかし、ヴェイロンはこれだけの風速に対処しなければならない。しかも、バックで角を曲がることができ、一時停止標識の意味さえ理解できれば、誰であろうとヴェイロンに乗る資格を得ることができてしまう。

この車の設計は常軌を逸している。冷却のために10個もラジエーターが付いている。スピードと内燃機関の限界を極めている。なので、こんな車はもう二度と登場しないと思っていた。後継車を作る意欲など湧かないだろう。ビジネス的側面だけでなく、技術的側面から見ても後継車を作るのはあまりに難しい。

しかも、状況はさらに悪化した。ブガッティの親会社であるフォルクスワーゲンは、ディーゼル不正の罰金として持ち合わせの金をほとんどすべて払わなければならなくなってしまった。

にもかかわらず、これだけの困難を乗り越え、ブガッティは新型モデルを生み出した。250万ポンドのシロンと呼ばれる新型モデルは、あのヴェイロンよりもさらに速い。最高速度は420km/hだ。これを秒速に直すと、117m/sとなる。攻撃ヘリコプターのアパッチをご存知だろうか。シロンはアパッチよりも速い。

これだけの速さの理由のひとつが8Lエンジンだ。16気筒が「W」型に配置され、4基のターボチャージャーにより過給される。その結果、なんと1500PSもの最高出力が発揮される。もう一度言おう。1500PSだ。

しかし、エンジンと同じくらいボディも重要だし、車高を低くする機構やウイングの角度を変更する機構も重要だ。車を運転していても、この変化には気付けない。なぜなら、目を見開きながら、ただ眼前の異常な光景に圧倒されるしかないからだ。

私は先週シロンを運転した。サーキットを数周走るばかりでなく、この車でサントロペからスイスの国境を経てトリノまで移動した。いまだそのときの興奮は覚めていない。シロンのスピードは想像を絶するものだった。

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一度、フランスのオートルートでオークリーのサングラスをかけてアウディ・R8やアストンマーティン・DB11を乗り回す若者集団に出会った。彼らはシロンのそばにぴったりとつき、エンジンを吹かして私を挑発してきた。なので、私はアクセルを踏み込んだ。1秒後、私は彼らから1kmほど離れた位置まで進んだのだが、その場所からでも、彼らのペニスが驚きのあまり縮んでしまったことは理解できた。

大手自動車メーカーの作る車にシロンに比肩できるようなモデルは存在しない。マクラーレン・P1すらも遥か遠い位置にある。ドラムの演奏能力で私とジンジャー・ベイカーを比べるようなものだ。

息が止まるほどの恐怖をもたらすのはなにも直線ばかりではない。コーナーからの脱出速度も相当だ。ヘアピンの出口で1速でアクセルを床まで踏み込むと、ホイールスピンなど起こらず、見事に安定したまま、すべての馬力が、すべてのトルクが、余すところなく地面に伝わる。加速やGフォースはあまりにも強烈で、顔が外れてしまったのではないかと錯覚してしまう。痛覚を刺激するほどのスピードだ。

警察官には決して知られたくない秘密のボタンもついている。このボタンを押すと、それまでエアコンの情報を表示していた液晶画面に平均車速が表示される。一度それを確認してみたのだが、表示されていた数字は200km/hを超えていた。平均車速が200km/hだ。しかも、私が走っていたのは山道だ(一応注釈しておくが、公道ではない)。やはり異常だ。

それでも、運転するのはそれほど難しくない。いや、リチャード・ハモンドが運転したら丘から転落してしまうだろうが、それ以外の人間にとっては朝飯前だ。この車には大仰さがない。爆発するような排気音が響くわけでもない。エンジンが金切り声を上げることもない。音のギミックは一切存在しない。しかも、手に触れる場所はどこも金属かレザーだ。ただし、エンブレムだけは例外だ。エンブレムはスターリングシルバー製だ。

もしロールス・ロイスがミッドシップのスーパーカーを作ったなら、きっとこんな車が出来上がるのだろう。この車にはやかましさやハードさがない。石畳の道を走ったとしてもパタパタ音はしない。それに、荷室もちゃんとある。…グレープフルーツが入るほどの。

快適性や高級感の代償として、この車にはミッドシップスーパーカーらしさがない。流れるような、繊細な走りはしない。コーナーから飛び出て、すぐに次のコーナーに向けてブレーキをかけるだけだ。この車の走りはレガートではなくスタッカートだ。結局、これほどパワフルな車からすると、もはや直線と呼べるような道などなくなってしまう。直線の存在に気づく前に喰らい尽くしてしまう。つまり、落ち着いている暇などない。平和は存在しない。常に変化を続ける。

ミッドシップスーパーカーの大半は踊るように走る。それはシロンも例外ではないのだが、シロンが踊るのはワルツでもタンゴでもない。1979年のパンククラブで、シャム69を聴きながら踊り狂っている。

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シロンはドライバーのための車ではない。運転していると重く感じられるからだ。事実、この車は重い。シロンはまるで火山のような車だ。マクラーレン・P1はハチドリに例えることができる。あちこちに俊敏に移動するさまは圧巻だ。一方、シロンを運転していると、ヴェスヴィオの噴流に巻き込まれ、熱と圧力と気流にもみくちゃにされているような気分になる。

見た目も昔ながらのミッドシップスーパーカーとはまったく違う。偉そうに見える。政治家的だ。見る角度によっては(特に後ろから見ると)醜い。

フロントにはブルネル風の鼻型フロントグリルが付いている。これこそがブガッティの伝統らしい。外装に用いられているありとあらゆる空力パーツは、何度も何度も試行錯誤した末に取り付けられたものばかりだ。

もしもF1カーから小さなウイングが外れてしまったらどうなってしまうだろうか。即座にコースアウトしてクラッシュしてしまうだろう。しかも、F1が300km/h以上出すことはあまりない。ブガッティはそれよりもよっぽど速く走るので、伝統の鼻を付けることは開発陣にとっては悪夢であったはずなのだが、どうやったのか鼻はちゃんと付いている。

結局、これがシロンの本質だ。走る歓びをもたらすための車などではない。美しさを追求した車でもない。

物理法則と勝負をしているわけでもない。物理法則を一方的に叩き潰している。驚嘆すべき技術だ。神への冒涜だ。

地球の友やグリーンピースをはじめとしたありとあらゆるジェレミー・コービン信者たちは、今こそ娯楽を捨て、責任ある生き方をしていくべき時だと主張している。シロンはそんな彼らの崇高な理念も冒涜している。

我々はそんな姿勢を称賛するべきだろう。なにより、こんな車をフォルクスワーゲンが作ったことが嬉しくて仕方ない。


The Clarkson review: Bugatti Chiron