イギリスの大人気自動車番組「Top Gear」でおなじみのジェレミー・クラークソンが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。

今回紹介するのは、セアト・イビーサ クプラのレビューです。


Ibiza Cupra

世界の自動車メーカーの大半は、何らかのビジョンをもった人間により設立された。ヘンリー・ロイスしかり、ルイ・シボレーしかり、ニコラ・ロメオしかり、本田宗一郎しかり、エンツォ・フェラーリしかり、ブライアン・ヒュンダイしかりだ。もっとも、最後の例は嘘なのだが。

上で挙げた男たちは、他のメーカーの車作りを見て、自分ならもっと違った、もっと優れた車を作ることができると考えた。彼らには夢があり、それを実現しようとした。しかし、セアトは違う。

スペイン内戦によりスペインは荒廃した。その後、真面目くさった銀行家や実業家が集まって委員会を結成し、数回会議を重ねた。いずれ国が復活する頃には、国民が車を必要とするようになるだろう。そして、限られた国民の金を輸入品に使わせないよう、自国で自動車を製造するべきだという結論が出た。そうして、SIATという企業が誕生した。

当時、スペイン人が得意だったことといえば、撃ち合いやロバを高層ビルから突き落とすことくらいで、車のような複雑な製品を作ることは得意ではなかった。そのため、外国の企業に協力してもらう必要があり、ヨーロッパを回って協力してくれる企業を探した。

悲しいかなそれは1942年の話であり、他のヨーロッパの国々は、安い小型車を製造するノウハウを学びたがっているスペイン人などにかまっている場合ではなかった。なのでSIATは1948年まで待ち続け、ようやくフィアットが協力を申し出た。しかし、フィアットは庶民向けの12馬力未満の車など誰にも作れないと主張した。それから5年かけて、バルセロナ製の非常に豪華で非常に高価なセダンが誕生した。当然、販売は失敗に終わった。

しかも、フランシスコ・フランコはSIATのI(Ibéricaの頭文字)をEspañolaの頭文字であるEに変えてしまった。要するに、この企業は英語圏に車を輸出することをまったく考えていなかったということだ。Seatなんて名前の車を誰が欲しがろうか。

しかし、それも大きな問題ではなかった。当時、イギリスには汚水にまみれて茶色く濁った川の名前の付いたハンバーという自動車メーカーがあった。アメリカにはオールズモビルという名前の自動車メーカーがあった。つまり、椅子という名前の車に乗ろうとも大して恥ずかしいわけではなかった。

いずれにしても、スペインの新産業には大きな問題があった。ストライキや洪水、不正などが相次ぎ、ろくでもない車ばかりが作られた。真面目な話、1970年代のセアト車をなにか知っているだろうか。まさか。私すら知らない。

rear

そして1980年の初め、セアトを悲劇が襲った。フィアットがセアトのパートナーから撤退した。その結果、セアトは自力で車を開発しなければならなくなり、1982年にはセアト・ロンダが登場した。セアトいわく、これはフィアットの援助なしで開発された完全独自開発のモデルだそうだ。

しかし、重症の結膜炎を持っている人が見ても分かるだろうが、セアト・ロンダはフィアット・リトモのノーズを交換しただけの車だ。ただ幸いなことに、パリの仲裁裁判所の裁判官は相当に酷い結膜炎を患っていたようで、フィアットがセアトを訴えた際にはセアト側に味方した。そして、セアトは法律を味方につけ、やがてフォルクスワーゲンを作り始めるようになった。

一見すると、あまり巧い商売のようには思えない。ジャガーを購入する人は、そこにウィリアム・ライオンズのDNAを求めるはずだ。ホンダやフェラーリにも同じようなことが言える。いずれのメーカーの車も、いまだ創業者の夢と情熱を映す鏡であり続けている。しかし、セアトの過去にあるのは、フランコの面影と、国策と、そして意匠権の侵害だけだ。

それに、「フォルクスワーゲンが欲しいのだが、有能なドイツ人が作った車は嫌だ、スペイン人が作った車がいい」なんてことを考える人間が果たして存在するだろうか。

意外なことに、そんな人間が多数存在した。セアトはフォルクスワーゲンのモデルに地中海の有名観光地の名前を付けるという賢明な策を講じた。普通なら、スペイン産のポロをわざわざ購入しようと思う人間などいない。ところが、イビーサという名前を付けた途端、ドラッグを愛する20代の若者たちがそこかしこから群がってきた。

本題に移ろう。太いタイヤと黒いホイールを履き、1.8Lのターボエンジンを搭載する、レーシーな雰囲気の3ドアホットハッチ、セアト・イビーサ クプラだ。小さい車にしては随分と内容が充実していそうだ。

私はこの車に夜明けの海岸を思わせるような演出を期待していた。192PSという最高出力から、沸き立つ鼓動と底なしの興奮を期待していた。しかし、実際はよっぽど冷めた車だった。静粛性も高く、落ち着いており、成熟していた。

足回りについても同じことが言える。セアトはツーリングカー選手権に参戦しており、セアトはそれをアピールするためにこのホットハッチを作っている。トランスミッションはマニュアルで、乗り心地の悪さを楽しむような層に、ズボンを尻よりも下の位置で穿く層に向けて作られている。にもかかわらず、この車は凹凸をなかったかのようにいなしてしまう。

interior

インテリアがパチャのように派手なわけでもない。グレーにグレーが積み重なっているだけだ。この車のインテリアと比べればスリッパすら派手に見えるかもしれない。

しかし、先進性は備えている。コーナリング時にアクセルを踏み込むと、コーナー内側のタイヤが無意味に回転するのを防ぐため、内側のタイヤのみに自動的にブレーキがかかる。また、アジャスタブルダンパーも装備されている。

それに、現代においてはこちらのほうが重要なのだが、この車は人類の知識の中に存在するありとあらゆるインターフェイスと接続することができる。Apple CarPlayも使えるし、Android Autoとやらにも対応しているそうだ。なのできっと、自分の陰部の写真をボイスコマンドを使って世界に送信することもできるだろう。

これは奇妙な車だ。誤解しないでほしいのだが、この車は、速いし、iPod的な見た目も良さも備えている。特にブラックのホイールとホワイトのボディカラーはうまく調和している。しかしながら、この車に乗るのは園芸作業用のズボンを穿くようなものだ。

メカニズム的にまったく同一なフォルクスワーゲン・ポロGTIは、見た目も乗り込んだときの気分もセアトより活き活きしている。これは妙な話だ。顧客は、フォルクスワーゲンには頑固さや合理性を、セアトには熱狂的な興奮を求めているはずだ。

私はどちらが好きなのか自分でも分からないし、あえてはっきりさせようとも思わない。なぜなら、いずれも優秀な車であることは確かなのだが、いずれもフォード・フィエスタSTには劣るからだ。フィエスタSTは至宝だ。この車からはヘンリー・フォードの商魂も感じられるのだが、同時に走りの血統も感じられる。

それに比べれば、セアトはただの快適な移動手段でしかない。


The Clarkson Review: 2016 Seat Ibiza Cupra