イギリスの大人気自動車番組「Top Gear」でおなじみのジェレミー・クラークソンが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。
今回紹介するのは、2008年に書かれた日産・GT-Rのレビューです。
※関連リンク
・2011年モデルの試乗レポート
・2014年モデルの試乗レポート

私は15年前に日本に行ったのだが、2週間ずっと渋滞にはまり続け、やっとの思いで帰ってきた。その時の経験から、いずれ世界中で制限もなく誰もが車に乗れるようになれば、ケン・リヴィングストンが正しいと誰もが思う時代が来るのかもしれないと考えるようになった。
流れが遅いどころの話ではなかった。まったくもって動かなかった。その不動という概念を正しく理解するためには頭を吹き飛ばすほかないだろう。1993年当時の東京は冗談抜きで死に直結していた。
それから15年後、ほぼ持続的な世界的経済成長を経て、状況はおそらく悪化していることだろう。もし今、東京に飛んだとしても、15年前から続く渋滞はいまだ動かず、空港には当時と変わらないタクシーがいまだ待ち続けているのだろう。日本国民は誰もが当時からずっと渋滞にはまり続け、世界貿易センタービルが崩壊したことにさえ気付いていないかもしれない。そう考えるのが普通だ。
ところが、今の東京の道路は新生児の動脈血と同じくらいに滑らかに流れている。血栓も塞栓も、血管狭窄も存在しない。午後2時に、ロンドンのメリルボーン・ロードに当たるような道路を160km/hで走ることさえできた。視界には一切の車が存在していなかった。一台としていなかった。
共産党員は日本の公共交通機関の優秀さがその理由だと考えるはずだ。実際、日本の電車は予定より60秒以上遅れると「遅延」扱いになる。しかし、日本の公共交通機関は15年前も既に同じくらい優秀だった。
日本は京都議定書が定められた地元の国なので、国民は自動車に乗ることを恥じ、自転車に乗って通勤しているのだろう、なんてことを考えるヒッピーもいるはずだ。しかしそれも違う。それに、ただ市民の金を奪うだけではない、まともに機能する渋滞税のシステムが構築されているわけでもない。
実際の理由は非常に単純だ。日本以外の国において、車はどんどん大きくなっている。現行BMW 3シリーズは80年代後半に販売されていたBMW 5シリーズよりも約10cm長い。現行ポロは初代ゴルフよりも大きい。21世紀のロールス・ロイス ファントムはエジプト人の家よりも巨大だ。
日本では車を購入するために車庫証明が必要なのだが、全長3.4m未満、排気量660cc以下の車ではそれが免除される。日本には駐車場所を所有している人がほとんどいないため、鳥の餌箱サイズの土地に収まる大きさの車の需要が急激に増加した。日本ではその規格に収まる車が58車種販売されており、中でもベストセラーであるスズキ・ワゴンRは年間25万台も売れている。
真面目な話、イギリスで売られているような農場や高層ビルと同じくらい巨大な日本車は日本では滅多に見かけない。ほぼ全員があまりにも小さな車に乗っているため、肉眼ではほとんど視認することができない。
その結果は非常に単純だ。日本の「軽自動車」が作る渋滞の長さは普通の車が作る渋滞の半分で済む。それに、微生物と同等のサイズの軽自動車なら、わざわざ駐車場を探すためにあちこち走り回る必要もないため、渋滞はすぐに解消されてしまう。自分のポケットの中に入れてそのまま仕事に行けばいい。
ただし、いくつか欠点もある。まず、ボディサイズが小さいため、室内が広大とは言えない。国民の平均身長が50cmそこらの日本ならいいのかもしれないが、オランダ人などには不向きだ。ダイハツ・ミラの室内に肩のある人間2人が並んで座ることは不可能だ。
問題は他にもある。軽自動車は全長がわずか3.4mしかないため、ボンネットなどという無駄なものは付けられない。そのため、超小型のエンジンがダッシュボードの下に搭載され、乗員は車の一番前に座ることになる。正面衝突でも起こそうものなら、まだ衝突していない時点で自分と相手ドライバーの距離が30cm未満という状況になってしまう。
それからデザインにも問題がある。そもそも軽自動車にデザインなど存在しない。軽自動車のルーフラインを流線型にしたり、リアエンドをカーブさせたりしようとしても、室内空間を犠牲にしてしまうため、結局はすべての車がクーラーボックスのような見た目になってしまう。しかも、履いているタイヤはどれも極小なので、キャスターの付いたクーラーボックスにしか見えない。要するに、軽自動車は間が抜けている。間抜けな車に乗るために大金を費やしたがるような人間は存在しない。
この問題点を誤魔化すため、メーカーは軽自動車にファンキーで個性的な名前を付けている。名前を付ける際には英語辞書をめくってランダムに単語を拾っているようだ。そうして生まれたのが、三菱・マム500やスズキ・アルト アフタヌーンティー、それからマツダ・キャロル ミレディなどの車だ。
アフタヌーンティーという名前のクーラーボックスに乗って通勤したいと思うだろうか。まさか。私だって嫌だ。なので、私が先月に日本に行った際は、最高速度310km/h、最高出力480PS、4WD、完全制御の道路を猛進する爆弾、日産・GT-Rに乗った。
おかしな話だ。軽自動車が溢れる日本の道を走ると、自分がまるでかつてのヘヴィメタルバンドになったかのような気分になった。ガールズ・アラウドの曲を鳴り響かせながら爆走する恐竜になったかのような気分だった。しかし、イギリスで乗れば感覚は大いに異なるだろう。
かつてのGT-Rは2ドアのスカイラインクーペをベースとしていた。しかし、今のスカイラインはろくでもない車なので、同じ手法をとることはできなかった。なので、密封された工場の中、少人数グループが物理法則を半ば破壊するようなハンドメイドのマシンを作ることになった。
細部にわたって驚くほどのこだわりがある。例えば、普通の空気は膨張・収縮しやすいため、GT-Rのタイヤには窒素が封入されている。それに、ひとつひとつのトランスミッションがハンドメイドのエンジンひとつひとつに合うように調整されている。
他にもある。日本の自動車メーカーが外部に主要部品を委託することは滅多にない。自分たちですべて完結できると考えている。ところが、GT-Rにはブレンボのブレーキが装着されている。シャシはロータスが開発したものが基本になっている。GT-Rでは、ヨーロッパ最高の技術が日本にしか作れない電子制御システムと融合している。
この車にはリアにデュアルクラッチトランスミッションが搭載され、フロントにはハンドメイドの3.8Lツインターボエンジンが搭載され、あらゆる制御が可能な4WDシステムが備わる。にもかかわらず、普通に道を走っていると、なんと表現すべきか…非常につまらない。音は普通だ。乗り心地も普通だ。ステアリングも普通だ。あらゆる設定を変えることができるのだが、どういじろうとも何も変わらない。ただの巨大なサニーのようだ。
それに美しくもない。あらゆる形状、あらゆるディテールが空力性能に配慮したものだということは分かっているのだが、それにしてももう少しどうにかできなかったのだろうか。
日産はGT-Rを駄目にしてしまったものだと思いつつ、少し加速してみた。さらに加速してみた。ところが、この車はまったく弱みを見せなかった。まるで熟睡しているかのようだった。ただの人間であるところの私ごときが何をしようと、この車を動揺させることなど不可能に思えた。
ニュルブルクリンクをケーニグセグやマクラーレン・メルセデスよりも速く走れる車に乗っているという実感はまったくなかった。よっぽど軽量な、セラミックブレーキ付きのポルシェ・911ターボよりも制動性能が優れている車に乗っているという実感はまったくなかった。
山道を見つけて少し飛ばしてみたのだが、それでもGT-Rは非常に安定しており、落ち着きを失うことはなかった。時折、ターボチャージャーからかすかな音が聞こえてきたり、セミスリックタイヤがわずかに鳴くようなことはあった。しかしそれだけだ。この車には一切のドラマが存在しない。とんでもない車に乗っているという感覚がまったくなかった。それに、半日酷使してもブレーキはまだ氷のように冷たかったし、効きもシャープなままだった。
要するにこれは、今までに運転したことのない類のとんでもない車だ。ヨーセンサーやGメーターを見れば、これがパソコンのような車だと予想する人もいるかもしれない。あるいは、高度な技術が投入されているのだから、公道を走るレーシングカーのような車だと予想する人もいるかもしれない。しかし、どちらも違う。ニュルブルクリンクで7分29秒を達成できる車のようには感じられない。その映像をこの目で見てもまだ信じられない。
もしミハエル・シューマッハが北極のブリザードの中で火山から溢れ出る熔岩に追われている状況だとしても、この車の実力の10%しか出せないだろう。だとしたら、それ以外の人間の場合はどうなのだろうか。私ならどうなのだろうか。そんなことは考えても仕方がない。
日産は妙なことを成し遂げた。誰にも、どこでも、どんな時でも実力を発揮することのできない車を作ってしまった。
Nissan GT-R
今回紹介するのは、2008年に書かれた日産・GT-Rのレビューです。
※関連リンク
・2011年モデルの試乗レポート
・2014年モデルの試乗レポート

私は15年前に日本に行ったのだが、2週間ずっと渋滞にはまり続け、やっとの思いで帰ってきた。その時の経験から、いずれ世界中で制限もなく誰もが車に乗れるようになれば、ケン・リヴィングストンが正しいと誰もが思う時代が来るのかもしれないと考えるようになった。
流れが遅いどころの話ではなかった。まったくもって動かなかった。その不動という概念を正しく理解するためには頭を吹き飛ばすほかないだろう。1993年当時の東京は冗談抜きで死に直結していた。
それから15年後、ほぼ持続的な世界的経済成長を経て、状況はおそらく悪化していることだろう。もし今、東京に飛んだとしても、15年前から続く渋滞はいまだ動かず、空港には当時と変わらないタクシーがいまだ待ち続けているのだろう。日本国民は誰もが当時からずっと渋滞にはまり続け、世界貿易センタービルが崩壊したことにさえ気付いていないかもしれない。そう考えるのが普通だ。
ところが、今の東京の道路は新生児の動脈血と同じくらいに滑らかに流れている。血栓も塞栓も、血管狭窄も存在しない。午後2時に、ロンドンのメリルボーン・ロードに当たるような道路を160km/hで走ることさえできた。視界には一切の車が存在していなかった。一台としていなかった。
共産党員は日本の公共交通機関の優秀さがその理由だと考えるはずだ。実際、日本の電車は予定より60秒以上遅れると「遅延」扱いになる。しかし、日本の公共交通機関は15年前も既に同じくらい優秀だった。
日本は京都議定書が定められた地元の国なので、国民は自動車に乗ることを恥じ、自転車に乗って通勤しているのだろう、なんてことを考えるヒッピーもいるはずだ。しかしそれも違う。それに、ただ市民の金を奪うだけではない、まともに機能する渋滞税のシステムが構築されているわけでもない。
実際の理由は非常に単純だ。日本以外の国において、車はどんどん大きくなっている。現行BMW 3シリーズは80年代後半に販売されていたBMW 5シリーズよりも約10cm長い。現行ポロは初代ゴルフよりも大きい。21世紀のロールス・ロイス ファントムはエジプト人の家よりも巨大だ。
日本では車を購入するために車庫証明が必要なのだが、全長3.4m未満、排気量660cc以下の車ではそれが免除される。日本には駐車場所を所有している人がほとんどいないため、鳥の餌箱サイズの土地に収まる大きさの車の需要が急激に増加した。日本ではその規格に収まる車が58車種販売されており、中でもベストセラーであるスズキ・ワゴンRは年間25万台も売れている。
真面目な話、イギリスで売られているような農場や高層ビルと同じくらい巨大な日本車は日本では滅多に見かけない。ほぼ全員があまりにも小さな車に乗っているため、肉眼ではほとんど視認することができない。
その結果は非常に単純だ。日本の「軽自動車」が作る渋滞の長さは普通の車が作る渋滞の半分で済む。それに、微生物と同等のサイズの軽自動車なら、わざわざ駐車場を探すためにあちこち走り回る必要もないため、渋滞はすぐに解消されてしまう。自分のポケットの中に入れてそのまま仕事に行けばいい。
ただし、いくつか欠点もある。まず、ボディサイズが小さいため、室内が広大とは言えない。国民の平均身長が50cmそこらの日本ならいいのかもしれないが、オランダ人などには不向きだ。ダイハツ・ミラの室内に肩のある人間2人が並んで座ることは不可能だ。
問題は他にもある。軽自動車は全長がわずか3.4mしかないため、ボンネットなどという無駄なものは付けられない。そのため、超小型のエンジンがダッシュボードの下に搭載され、乗員は車の一番前に座ることになる。正面衝突でも起こそうものなら、まだ衝突していない時点で自分と相手ドライバーの距離が30cm未満という状況になってしまう。
それからデザインにも問題がある。そもそも軽自動車にデザインなど存在しない。軽自動車のルーフラインを流線型にしたり、リアエンドをカーブさせたりしようとしても、室内空間を犠牲にしてしまうため、結局はすべての車がクーラーボックスのような見た目になってしまう。しかも、履いているタイヤはどれも極小なので、キャスターの付いたクーラーボックスにしか見えない。要するに、軽自動車は間が抜けている。間抜けな車に乗るために大金を費やしたがるような人間は存在しない。
この問題点を誤魔化すため、メーカーは軽自動車にファンキーで個性的な名前を付けている。名前を付ける際には英語辞書をめくってランダムに単語を拾っているようだ。そうして生まれたのが、三菱・マム500やスズキ・アルト アフタヌーンティー、それからマツダ・キャロル ミレディなどの車だ。
アフタヌーンティーという名前のクーラーボックスに乗って通勤したいと思うだろうか。まさか。私だって嫌だ。なので、私が先月に日本に行った際は、最高速度310km/h、最高出力480PS、4WD、完全制御の道路を猛進する爆弾、日産・GT-Rに乗った。
おかしな話だ。軽自動車が溢れる日本の道を走ると、自分がまるでかつてのヘヴィメタルバンドになったかのような気分になった。ガールズ・アラウドの曲を鳴り響かせながら爆走する恐竜になったかのような気分だった。しかし、イギリスで乗れば感覚は大いに異なるだろう。
かつてのGT-Rは2ドアのスカイラインクーペをベースとしていた。しかし、今のスカイラインはろくでもない車なので、同じ手法をとることはできなかった。なので、密封された工場の中、少人数グループが物理法則を半ば破壊するようなハンドメイドのマシンを作ることになった。
細部にわたって驚くほどのこだわりがある。例えば、普通の空気は膨張・収縮しやすいため、GT-Rのタイヤには窒素が封入されている。それに、ひとつひとつのトランスミッションがハンドメイドのエンジンひとつひとつに合うように調整されている。
他にもある。日本の自動車メーカーが外部に主要部品を委託することは滅多にない。自分たちですべて完結できると考えている。ところが、GT-Rにはブレンボのブレーキが装着されている。シャシはロータスが開発したものが基本になっている。GT-Rでは、ヨーロッパ最高の技術が日本にしか作れない電子制御システムと融合している。
この車にはリアにデュアルクラッチトランスミッションが搭載され、フロントにはハンドメイドの3.8Lツインターボエンジンが搭載され、あらゆる制御が可能な4WDシステムが備わる。にもかかわらず、普通に道を走っていると、なんと表現すべきか…非常につまらない。音は普通だ。乗り心地も普通だ。ステアリングも普通だ。あらゆる設定を変えることができるのだが、どういじろうとも何も変わらない。ただの巨大なサニーのようだ。
それに美しくもない。あらゆる形状、あらゆるディテールが空力性能に配慮したものだということは分かっているのだが、それにしてももう少しどうにかできなかったのだろうか。
日産はGT-Rを駄目にしてしまったものだと思いつつ、少し加速してみた。さらに加速してみた。ところが、この車はまったく弱みを見せなかった。まるで熟睡しているかのようだった。ただの人間であるところの私ごときが何をしようと、この車を動揺させることなど不可能に思えた。
ニュルブルクリンクをケーニグセグやマクラーレン・メルセデスよりも速く走れる車に乗っているという実感はまったくなかった。よっぽど軽量な、セラミックブレーキ付きのポルシェ・911ターボよりも制動性能が優れている車に乗っているという実感はまったくなかった。
山道を見つけて少し飛ばしてみたのだが、それでもGT-Rは非常に安定しており、落ち着きを失うことはなかった。時折、ターボチャージャーからかすかな音が聞こえてきたり、セミスリックタイヤがわずかに鳴くようなことはあった。しかしそれだけだ。この車には一切のドラマが存在しない。とんでもない車に乗っているという感覚がまったくなかった。それに、半日酷使してもブレーキはまだ氷のように冷たかったし、効きもシャープなままだった。
要するにこれは、今までに運転したことのない類のとんでもない車だ。ヨーセンサーやGメーターを見れば、これがパソコンのような車だと予想する人もいるかもしれない。あるいは、高度な技術が投入されているのだから、公道を走るレーシングカーのような車だと予想する人もいるかもしれない。しかし、どちらも違う。ニュルブルクリンクで7分29秒を達成できる車のようには感じられない。その映像をこの目で見てもまだ信じられない。
もしミハエル・シューマッハが北極のブリザードの中で火山から溢れ出る熔岩に追われている状況だとしても、この車の実力の10%しか出せないだろう。だとしたら、それ以外の人間の場合はどうなのだろうか。私ならどうなのだろうか。そんなことは考えても仕方がない。
日産は妙なことを成し遂げた。誰にも、どこでも、どんな時でも実力を発揮することのできない車を作ってしまった。
Nissan GT-R