イギリスの大人気自動車番組「Top Gear」でおなじみのジェレミー・クラークソンが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。

今回紹介するのは、フェラーリ・488GTBのレビューです。


488

我々イギリス人は、自分たちが教養があって行儀もよく、ユーモアのセンスもあり、感情を抑制することもできると考えがちだ。しかし、この緑豊かな土地でフェラーリに乗れば、我々イギリス人が、控えめに言っても嫉妬と憎悪に満ちた人種であることが明らかになってしまう。

普通の車で通勤すれば、側道から大通りに出ようとする際、大通りを走る車が少しスピードを抑えて入れてくれる。しかし、フェラーリは入れてくれない。高速道路でも同じようなことが起こる。普通の車ならば普通に追い越させてくれる。しかし、フェラーリに乗っていると、前の車は永遠に追い越し車線に居座り続ける。

ミスター・ノーマルがフェラーリを見ると、自分の生活があまり成功していないことを自覚してしまう。彼にとってのフェラーリ乗りは、イケメンで学生時代から女の子にモテており、6年生の社会科見学のときに自分のお弁当を強奪した同級生を体現するような存在だ。

もしそんなフェラーリ乗りに嫌がらせをすれば、少しの時間であっても金持ちの特権階級に一矢報いてやることができると考えているのだろう。取るに足らない人間のちょっとした反撃だ。

それからサイクリストもそうだ。多くの人間は階級闘争をするために自転車を使う。彼らはドライバーをマーガレット・サッチャーとヒトラーの不浄なる間の子であると見なし、ドライバーに向かって唾を吐き、叫び、家に帰ってからはドライバーの顔写真をサイクリストの集うウェブサイトに晒す。

もしドライバーがフェラーリに乗っていたならサイクリストたちは発狂してしまう。サイクリストにとってフェラーリ乗りは悪魔にほかならない。金を稼ぐためには児童を労働させることさえ厭わない。公害を生み出しもする。あるいは、トーリー党の一員かもしれない。なので、フェラーリの屋根を叩いたり、フェラーリ乗りに対して低俗な野次を飛ばしたりするのは、彼らにとっては義務なのだ。

そこそこ裕福な人間もフェラーリだけは苦手だ。心の奥に眠る負の感情を呼び出してしまう。先週、ロンドン郊外で改造されたBMW M3を見かけた。そのオーナーは成功者だ。おそらくはワインバーくらい持っているだろう。しかし、彼は自分の車よりも明らかに優位にある車に拒否反応を示した。そして彼は排気音を響かせ、車体を左右にふらつかせて煽り、私をどけようとした。なので仕方なく私は道を譲った。

他の国でこのような対応をされることはない。アメリカにおいてフェラーリは目標であり、フェラーリを見た人間はもっと早起きして頑張らなければならないと考える。イタリアにおいては美の象徴であり、周りからは賞賛される。それ以外の国において、フェラーリは現実となった夢の象徴だ。ところが、イギリスにおいては誰もが口を揃えてこう言う。
結構なご身分だな。
これは一番がっかりしてしまう言葉だ。

フェラーリに乗る歓びを感じる時間の10倍は周りから嫉妬と憎悪の感情を浴びせかけられる。フェラーリに乗るためには厚顔無恥にならなければならない。ただし、私だけは違う。もし私がフェラーリに乗っている人を見かけたら、その人のところに駆けて行き、賞賛の言葉を投げかけるだろう。

資本利得という問題もある。希少な車を購入した場合、普通は生綿の敷き詰められたガレージに保管し、いずれ2倍の値段を付けて売るはずだ。つまりは資産だ。年金だ。ワイパーの付いたISAだ。そうなると必然的に、そんな車を運転したりはしないはずだ。リスクが大きすぎる。

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世界の名車の多くは鍵のかかった地下室に保管され、本来の居場所であるはずの道路を走ることはほとんどない。実に悲しいことだ。もし私が大蔵省の大臣なら車に資本利得税をかける。嫉妬と憎悪に満ちた国民の支持も得られるだろう。それに、希少な車は何度もオーナーを変えるので、税収は相当なものになるはずだ。そして結果的には、名車たちがまた衆目の前に現れることになるだろう。

もし私が今回試乗したフェラーリのオーナーなら、どこへ行くにしてもこの車に乗るはずだ。行く宛のない旅をするかもしれない。友達の送り迎えを自ら買って出ることもあるだろう。午前3時に子供から電話がかかってきて、金が無いから迎えに来てくれと言われても、むしろ喜んでしまいそうだ。運転する言い訳ができるのだから。

ターボが付いていることを理由に、488は真のフェラーリではないと言う人もいる。サラブレッドにはターボなど相応しくないと言う人もいる。いわく、ターボはEUの排ガス規制に通るための手段であり、フェラーリの本質とは相反するそうだ。フェラーリとは自由とアドレナリンとスピードと情熱と美と魂の象徴だ。二酸化炭素と官僚主義の象徴ではない。

その通り。その理屈は理解できる。しかし、ジル・ヴィルヌーヴが運転したフェラーリのレーシングカーはターボだったはずだし、フェラーリ史上最高傑作のF40には過給器が付いていたはずだ。それに、現代のエンジン技術をもってすれば、ターボであることなど感じることはできない。ターボらしい音すらしない。純粋なフェラーリの音だ。どこか不気味で、そして美しい。

しかも、走りはとんでもなく見事だ。ギアをオートにして走れば、何の問題もなく快適に走ることができる。おそらく、これこそが488の一番の美点だろう。高度な技術を使ったハイパフォーマンスカーでありながら、まるで子猫のように扱うことができる。

あまりに大人しいので、アクセルを踏み込んでもまともに走らないのではないかとさえ思ってしまう。しかし、この車は速い。この車ほど扱いやすいミッドシップは他に知らない。アンダーステアなど一切存在しないし、リアが暴れ出すようなこともない。かつての458はマクラーレン・12Cほど優秀な車ではなかった。しかし、488のおかげで跳ね馬は再びトップの座に就くことができた。ドライビングマシンとして考えると、完璧としか形容しようがない。

ただし、ダッシュボードは気に入らない。ライトから方向指示器からワイパーに至るまで、あらゆる操作系をステアリングに集約するのは馬鹿げているとしか思えない。しかも、ナビやラジオの操作系までそこにあるため、ドライバー以外に操作することができなくなってしまう。

フェラーリを毎日のように使うのであれば、この操作系にもいずれは慣れるだろう。実際、488は毎日乗るべき車だ。毎日乗ることのできる車だ。

ジェームズ・メイは先日、458スペチアーレを購入したのだが、自動車の中古車市場は狂っており、458スペチアーレの価値はどんどんと高騰し、その結果ジェームズはほとんど愛車に乗れずにいる。

一方、488は限定車ではないので、価値が上がることもないだろう。なので、車として使うことができるし、車として使うべきだ。

フェラーリに乗れば周りの人間が全員アーサー・スカーギルになってしまうかもしれない。しかし、こう考えてみてほしい。給油中、隣で給油している男に嘲笑されたら、もっと嫌われるようなことを言ってやればいい。俺がフェラーリに乗っていようがいなかろうが、お前の人生は何も変わらないだろう、と。

いずれにしろ、その男は不細工な妻と馬鹿な子供一緒に、ポンコツのシトロエンに乗ってホームセンターに行くような生活を送るのだから。


The Clarkson review: 2016 Ferrari 488 GTB