イギリスの大人気自動車番組「Top Gear」でおなじみのジェレミー・クラークソンが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。

今回紹介するのは、2005年に書かれたマセラティ・クアトロポルテのレビューです。


quattroporte

最近のフェラーリを運転したことがあるだろうか。今乗っている車が何であろうと、フェラーリに乗ればその出来の良さに驚愕して目を見開かずにはいられないはずだ。

現代のフェラーリには、他のどんな車にもない車との一体感がある。車と同化し、車と繋がることができる。ステアリングやブレーキ、スロットルは金属やケーブルやカーボンファイバーからなる部品だとは感じられない。手や足の延長の有機的物体であるかのように感じられる。

そのため、獣を手懐けているような感覚はない。どの操作も息をするかのように自然で直感的なため、望んでいたよりもずっと速く走らせることができる。

ここで私はフェラーリをマンチェスター・ユナイテッドに例えるつもりだった。しかし、サッカーの世界においては、マンチェスターに勝つこともできるチェルシーやアーセナルといったチームが存在する。しかし、自動車の世界においては、フェラーリの域に近付く車すら存在しない。

アストンマーティン・ヴァンキッシュから降りてフェラーリ・575に乗り込むのは、11世紀から飛び出して宇宙船エンタープライズの艦橋に乗り込むようなものだ。いずれの車も感情的には同程度に魅力的ではあるのだが、技術的にはフェラーリのほうが数百年は先を進んでいる。

他のフェラーリについても同じことが言える。ポルシェはカレラGTを作り上げ、きっと満足しているはずだし、メルセデスもSLRマクラーレンを自信を持って売り出したはずだ。私は二台とも運転したのだが、いずれも素晴らしい車だった。その後、二台のライバルであるエンツォを運転したのだが、速く走るためのマシンとして考えると断然エンツォの方が優れていた。

ここから、悲しいながらも確固たる結論が導き出されてしまう。フェラーリを買える金があるのに別の車を買うということは、2番手を買うということだ。それはヘンマンでありボルトン・ワンダラーズだ。どうしてそんなものを買うのだろうか。

私はフォード・GTを購入したのだが、その金額で購入できるフェラーリ・430の方が技術的には優れているのに、一体どうしてフォードを選んでしまったのだろうか。575や612が買える金を使って、どうしてベントレーなんかを購入する人間がいるのだろうか。フェラーリに6-0で完敗してしまうようなDB9に、一体どうして憧れる道理があるのだろうか。

実のところ、その理由は単純だ。フェラーリにはベッカムやファーディナンドに感じるようなやかましさがある。落ち着いた家に住み、BBC2を見て過ごしているような人間には合わない。フェラーリはどこか下品だ。

ここで、フェラーリの親戚であるマセラティ・クアトロポルテに目を向けてみることにしよう。

以前にコメディアンのジミー・カーがこの車の試乗記事を書いている。彼はクアトロポルテを非常に気に入ったらしい。しかし、編集部は一体何を考えているのだろうか。ローバー・75からまたローバー・75に乗り替えるような男にマセラティの試乗記事の執筆を依頼するのは、チャドからの難民にレストランの評価を頼むような話だ。感激するに決まっている。

しかし、私が感激することはないだろう。ここ20年間ずっとマセラティの試行錯誤を見てきたが、何一つ功を奏することはなかった。パワー不足のビトゥルボも、かつてのクアトロポルテも、3200GTも、1950年代のマセラティにあった美しさや魅力に欠けていた。

かつてマセラティはシトロエン傘下で、それからイタリア政府の傘下になり、アルゼンチンのプレイボーイのものになり、続いてクライスラーに売却されたのだが、経営がうまく行かず、その後、フィアットの手に渡ることになったのだが、結局はフェラーリの傘下となった。フェラーリはフォルクスワーゲンと協力して出来の悪かった3200GTをベースにマセラティ・クーペを生み出したのだが、これもやはり大した車ではなかった。

この頃、私はマセラティを酷評していたため、マセラティに私怨を抱いていると判断されてしまい、マセラティから広報車を借りることができなくなってしまった。なので、2004年にクアトロポルテが発売された時も、私はコヴェントリーにいた。

とはいえ、大したことではない。7万ポンド持っていて、速くて大きな4ドアセダンを買おうと思っているのであれば、コヴェントリーに行くべきだろう。スーパーチャージャー付きのジャガーにマセラティの大型セダンが敵うはずがない。そう自分に言い聞かせた。

とはいえ、私とマセラティの喧嘩は終わりを告げ、ウェールズの聞いたこともないようなメディアの試乗が終わった後にようやく、私の番がやってきた。そしてようやく、ヴォクスホール・クレスタを膨らませたような車に試乗することができた。

車に乗り込み、しばらくあちこちボタンをいじっていると、ようやくシートを後ろに下げるボタンを見つけた。しかし、そのボタンを押してもシートは動かなかった。最初、イタリア製だから壊れているのだと思ったのだが、実際はシートが既に一番後ろまで下がっていたのだと気付いた。このシートは十分後ろまで下がってはくれない。

その日の夜、窮屈な思いをしつつもなんとかクレスタもといクアトロポルテに乗り込み、お呼ばれの夕食へと向かった。その頃には空は暗くなっており、小雨も降っていたため、ワイパーを作動させる必要があったし、対向車が来たらハイビームを解除する必要もあった。

この操作は尋常ではなく難しかった。クレスタには頭の悪いパドルシフトが付いていた。このパドルはライトやワイパーを操作するレバーのすぐ隣に付いており、対向車が来るたび、4速に変速してしまった。

トランスミッションの設定をオートにすればこんな問題は起こらない。しかし、そうすると変速が非常にギクシャクしてしまい、200年前に後退したような気分がする。それに、乗り心地も非常にぎこちない。

目的地に到着して集中ドアロックのボタンを押したのだが、これを押すと助手席のドアミラーの下にあるライトが点灯した。これは玄関への道を照らし出すための時代遅れの仕様なのだろうか。それとも、何らかの配線ミスなのだろうか。

私は少し様子を見ることにした。少しどころかさらにしばらく待った。それでもライトは消えず、諦めようと思ったのだが、マセラティのオーナーの家はさぞ広く、玄関に辿り着くまでに相当な時間がかかることが想定されているのではないかと考えた。なので、もう少しだけ待つことにした。

ただ、その頃にはもうかなり寒くなってきており、雨にも濡れてしまったので、再び車の鍵を開けることにした。すると、助手席側のドアミラー以外のあらゆる照明が点灯し、一方で助手席側のドアミラー下の照明は消えた。再び鍵をかけると、助手席側のドアミラー下の照明が再び点灯した。

私はうんざりしてしまい、照明のことなど無視して夕食を食べに向かうことにした。もっとも、その頃にはもう夕食はほとんど終わっており、テーブルにはプリンが並び始めていた。

クアトロポルテは、見た目は1970年代のヴォクスホールのようだし、シートは狭いし、トランスミッションは頭が悪いし、乗り心地は硬すぎるし、配線はピサの斜塔と同じくらいにずれている。にもかかわらず、私はこの車を大いに気に入った。

気に入った理由の一つがブランドだ。ここ30年間、マセラティのオーナーはこぞってブランドの名声を汚そうと努力してきたのだが、その甲斐もなくいまだマセラティというブランドには威光が残っている。「今夜マセラティに乗らないかい?」という言葉にはかなりの魅力がある。

それに、走りも素晴らしい。4.2L V8エンジンは400馬力を発揮するのだが、これは最近のドイツのベンチマークと比べれば100馬力は劣る。しかし、ドイツ製のライバルとは違って電子リミッターなんてものは付いていない。なので、AMGベンツが250km/h以上出せなくなっている横を追い越していくことができる。そして、274km/hまで加速することができる。

音も素晴らしい。基本的には静かで、味のある室内は穏やかな状態を保っているのだが、アクセルを踏み込むと夢のような雷鳴が響き始める。最高だ。

しかも、天気の良い日中にはワイパーやライトの心配をする必要もないので、トランスミッションも自分で操作することができる。優れたトランスミッションではないし、本物のマニュアルの良さには程遠い。しかし、それでも使い物にはなる。

しかし、何よりこの車の良い所は"フィール"だ。この車が大型の4ドアセダンだと感じることは一切ない。流れるように曲がり、流れるようにグリップし、流れるようにブレーキがかかる。これはジャガーやアウディやメルセデスやBMWの大型セダンの感覚とはまったく違う。

別の言い方をすれば、この車はまるでフェラーリだ。これは最大の賞賛だ。しかし、当然ながらマセラティはフェラーリではない。だからなお良い。

マセラティにはフェラーリのような生意気さはないし、フェラーリよりも垢抜けているし、フェラーリよりも実用的だし、7万ポンドという値札はフェラーリよりも安い。