今回は、イギリスの大人気自動車番組「Top Gear」でおなじみのジェームズ・メイが2008年に英「Telegraph」に寄稿したエネルギー問題をテーマとしたコラム記事を日本語で紹介します。


Nissan Leaf Charging

正直なところ、ガソリンの価格がそれほど高いとは思っていない。確かに場所によっては1ガロンあたり7ポンドを超えるようなところもあるのだが、それでもヤギの部分脱脂乳と同じくらいだし、ビターズと比べれば3分の1の値段だ。

昨晩、フィアットの小型車を題材とした心温まるアニメ作品だと勘違いして映画『カンフー・パンダ』を見に行ったのだが、全く違うものだった。しかし、映画の内容以上にお菓子の値段に愕然とした。

私はさほど欲深いわけではないのでそれほどたくさん買ったわけではない。バナナ味のキャンディーを2つと、エビの形のキャンディーを2つ、ブーツ型のキャンディを1つ、リコリス菓子を1つ、それからジェリービーンズとチョコレートレーズンをティースプーン1杯ずつ買っただけだ。すべて合わせても紙袋の底すら埋まらないくらいの量だ。にもかかわらず、会計は1.47ポンドだった。

たかがお菓子の値段くらいでクレームをつけるわけにもいかないのだが、それにしても一握りのお菓子で1.47ポンドとはどういうことだろうか。こんな量は映画が始まるよりもずっと前に食べ終わってしまった。なので暇潰しのためにざっと計算してみたところ、お菓子の値段は1ガロンあたり330ポンド程度であることが分かった。

それを考慮すると、ハイオクガソリンはかなりお買い得なように思える。小型ハッチバックにハイオクを1ガロン入れれば80kmは走ってくれる。これは古代の人間にとっては大冒険ともいえる長距離だ。あるいは、距離の代わりに喜びをとってKTM X-BOWのような車に乗ることもできる。

私の愛車である古いロールスにガソリンを入れて浪費してしまうこともできるし、芝刈り機にそれだけのガソリンを入れたらやかましさに激怒した隣人に撃ち殺されるまでずっと動かし続けることができるだろう。

しかし、ものの見方によって事情は大きく変わる。趣味人の消耗品として考えれば、例えばショットガンのカートリッジなんかと比べれば非常にお買い得だ。しかし、生活必需品として考えると、あまりにも高価だ。

ここで電気と比較したくなる。未来においては、ガソリンやピストンは趣味のためにしか用いられなくなっていることだろう。移動のために用いられるのは、きっと電気とモーターだ。実際、鉄道ではそれが現実のものとなっている。サラリーマンたちは電気の力で輸送され、昔のディーゼル機関車は休日に趣味人のために走っている。

可能な限り燃費を稼ごうとするのは、特別な時のために備えているということなのかもしれない。電気自動車は確かにつまらないが、通勤などつまらなくて当然だ。だとしたら、わざわざ911に乗って通勤し、ガソリンを無駄にする理由などないのかもしれない。

ただし、電気はエネルギー資源ではなく、あくまでもエネルギーの輸送手段に過ぎない。水素でさえ、基本的には電気によって抽出されるため、バッテリーの一種と言えてしまう。つまり、低コストかつ大量の電気を作る必要がある。

ここで代替エネルギーの話になる。「代替」という言葉には問題が潜んでいる。代替とは本来の手段が使えないがために代わりに選択するもののことであり、その言葉にはマイナスの響きがある。それに、代替という言葉とヒッピーの関連性を考えれば、どうしても節約しなければならないような印象が付いて回る。

しかしこれはおかしな話だ。先進国はエネルギーを浪費することで発展してきた。節約とはすなわち後退を意味する。エネルギー問題がややこしくなったのは環境問題までかかわってきたからだ。この結果、エネルギーを使うことに対して世界が批判的になってしまった。

しかし、世界はエネルギーに溢れている。風は吹き、海は波立ち、太陽は輝いている。月の引力によって潮の満ち引きが起こっている。世界がある限り、この現象は終わらない。我々は太陽がなくなるまで、そこから電力を作り出す手段を講じるだけでいいはずだ。

もし私の意見が正しいのであれば、私の愛車であるポルシェ・ボクスターが絶滅することはないだろう。しかし、もう一台の愛車であるフィアット・パンダは絶滅しかねないのかもしれない。


A Panda on the brink of extinction