イギリスの大人気自動車番組「Top Gear」でおなじみのジェレミー・クラークソンが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。

今回紹介するのは、2008年に書かれたロールス・ロイス ファントムクーペのレビューです。


Phantom Coupe

以前にも言ったことがあるのだが、休暇中に別荘で仕事をするのは難しい。景色に釘付けになってしまうし、子供たちはやかましいし、ビールが飲みたくて仕方なくなってしまう。

しかし、こんな問題はいずれなくなるだろう。というのも、政府のシンクタンクは金持ち共から別荘を取り上げ、低能な人間たちに貸そうとしている。しかし果たして、こんな計画がうまくいくのだろうか。

例えば、多くの人は税金を節約するためにモナコに住んでいるそうだ。しかし現実には、モナコに小さな建物を買い、管理者を雇って維持させているだけだ。そうして、そこに住んでいるかのように偽装している。

別荘を持っている人間も同じようなことをして、別荘を取り上げられないようにするはずだ。田舎の別荘を自宅だと言い張り、ロンドンの家は一時的な住処に過ぎないと主張する。それを嘘だと証明するのはほとんど不可能だろう。

おそらく、政府のシンクタンクはそんなことなど考慮さえしていなかったのだろう。なぜなら、別荘を奪う計画は、あくまでも金持ち共に対する憎しみや嫉妬、嫌悪だけに基づいているからだ。そういう感情を抱く人間は多い。

ロンドンのウエスト・エンド地区で行われるミュージカルは平等をテーマにしているらしい。普通の人間なら実に素晴らしいと思うことだろう。しかし、タブロイド紙の記者は違った。アンドルー・ロイド・ウェバーが金持ちであることを理由に、ミュージカルには平等性など存在しないと厳しい論調で批判した。

意味が分からない。アンドルー・ロイド・ウェバーは公団住宅の周りを宝石を見せつけながらお供を引き連れ歩きまわっているわけではない。彼の人生は他人の人生に何らかの悪影響を及ぼしているわけではない。

クリフ・リチャードの美貌に嫉妬し、夜も眠れなくなってしまうのと同じことだ。しかし嫉妬したところで何になるのだろうか。それとも、彼の頬骨にドリルでも突き立てればいいのだろうか。しかし、クリフの顔を台無しにしたところで、自分の顔が変わるわけでもない。

私はアメリカに憧れているわけではないのだが、こと嫉妬という感情に関して言えば、アメリカ人はうまくコントロールできているように思う。リムジンが横を通ると、アメリカ人は決まって「いつか私もこんな車に乗りたい」と言う。しかし、イギリス人は「いつか奴を引きずり下ろしてやりたい」と言う。

今週、私はロールス・ロイスのクーペに乗って過ごしたのだが、おかげでイギリスの下級層は大きな苦しみと嫉妬を味わうことになった。この車でバス待ちの列の横を通り過ぎると、そこに発生するのは単なる嫌悪の感情ではない。触覚で、嗅覚で感じることのできる何かだ。

つい昨日、ボロボロのバンに乗った男がわざと2車線を跨いで走り、私の進行を妨げようとした。私をブロックしようと彼の人生には何の良いこともないはずなのに、彼はロールスの進行を妨げた。これは実に悲しい経験だった。

この記事はインターネット上に掲載され、多くの読者がこの記事にコメントを付けることだろう。「ほとんどの人間に買えない車のレビューをして何になるんだ」と文句をつける人もいるだろう。

確かに、ヒュンダイの新型コンパクトカーのレビューをすることもできる。5%の国民は興味を持って読んでくれるはずだ。しかし、逆に言えば、国民の95%はこんな車に興味などない。

一方、ロールスを買える人間は0.01%しかおらず、大半の人間はそれを買えるだけのお金も持っていないのかもしれない。しかし、多くの人がロールスに興味を持っているのではないだろうか。イギリスのシンクタンクの考えは間違っている。夢を見ることに害などないのだ。

ロールス・ロイス ファントムとはサクセスストーリーだ。この車は既に1,000台以上が販売されており、驚くべきことにその多くがオーナー自身によって運転されている。マイバッハはショーファー向けの車だ。前席に座るとどこかに違和感がある。しかし、ロールスの後席に座ると、どうにかして運転手の粗を探してクビにし、自分で運転してみたいと思うようになる。

ロールス・ロイス ファントムは他のどんな車とも違う、壮絶な車だ。車に使われているあらゆる部品を構成するあらゆる原子が、乗員を可能な限り快適にするように設計されている。スポーティーさなど皆無だ。

ファントムクーペも普通のファントムと同じ道を進むと思っていた。しかし違った。ロールスの親会社であるBMWによると、よりドライバーの方を向いた車だそうだ。それゆえ、この車にはロールス・ロイスで初めてスポーツボタンが付いている。これはまるでフィリップ王子に運動靴を装備するような話だ。無意味にしか思えない。なので私はこのボタンの存在をなかったことにした。

問題は他にもある。極小のリアウインドウからは外を見ることができないし、逆向きに開くスーサイドドアは狭い場所では厄介だし、インテリアはどこもかしこも磨かれすぎており、何もかもを反射してしまう。太陽が低くなってくるとダッシュボードが強く輝き始め、網膜が剥離してしまう。

それから、BMWと共通のナビにも問題がある。理解不能だし、有用な情報が載っていないし、プログラムはフィクションとコメディから成っている。複雑な形状の交差点に近付いたので縮尺を拡大しようとしても、画面が真っ白になってそうこうしているうちに違う道に入ってしまう。

しかし最悪なのはシートだ。あまりに硬く、サイドサポートも存在せず、4時間も走ると腰が痛くなってしまった。もっとも、政府のシンクタンクは「いいね!」と思うかもしれない。

しかし、こんな欠点も溢れる歓びに掻き消されてしまう。スポーツボタンさえ押さなければ、高速道路を何の心配もなく走ることができる。巨大な綿に包まれているかのような気分だ。

しかも、それでいて非常に速い。パフォーマンスはマセラティ・グラントゥーリズモとさほど変わらない。トランスミッションはスムーズな変速を第一に考えているのだが、それでもなお速い。

街中でも非常に快適だ。周りの人間は嫉妬に狂っているが、乗員の懸念は目を開けていられるかということだけだ。スピードバンプも好きな速度で乗り越えることができる。

この車に硬さを加えてしまったBMWは半殺しの刑に処すべきだろう。シルバーストン・サーキットのストウコーナーを倒れずに抜けることができても、ロールス・ロイスには何の意味もない。サーキットのコーナーをろくに曲がれなかったとしても、ロールス・ロイスは現実世界では崇高なのだ。

6.75LのV12エンジンはその存在を感じさせない。サスペンションは全長10kmの絹のようで、手に触れるものはどれもまるで19世紀の職人が何年もかけて作り上げた高級コートのようだ。なにしろ、インテリアの装飾品だけでトライアンフ・ヘラルドよりも重い。

そんな車の後方視界の悪さに文句を言うのは、ジョージ王朝時代のアンティーク家具が少しべたついているのに文句を言うようなものだ。感触、そして見た目がこの上なく美しいものを手に入れるにあたって、それくらいの代償は当然だ。

もし、ロールス・ロイスを自分で運転したいなら、ファントムサルーンの巨体を常に引きずり回す道理はない。確かにクーペのほうが2万7,000ポンド高いのだが、こちらの方が駐車は簡単だ。それに、クーペにはピクニックの時に座ることのできるレンジローバー風のドロップダウントランクリッドも付いている。

本当の意味でこの車の唯一の欠点は、周りからの嫌悪の視線だ。しかしそれがどうしたというのだろうか。嫌悪する側が悪いのだ。美しさも、快適さも、決して罪なんかではない。一方で嫉妬は…