イギリスの大人気自動車番組「Top Gear」でおなじみのジェレミー・クラークソンが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。

今回紹介するのは、マツダ・CX-7のレビューです。


CX-7

目的地に至るまでの過程よりも、目的地に着くことのほうが重要だと思うだろうか。目的地に至るまでの過程において、自動車はただの道具に過ぎないが、目的地に到着し、そこで待っていた知人が乗ってきた車を見るとき、車の本領が発揮される。

先日、あるパーティーに参加したのだが、私が到着した時には既に駐車場には12台のレンジローバーが停まっていた。そして私のを加えて13台になった。その場に至るまでの道中は至って普通だった。しかし、到着すればランドローバーだからこそ歓迎される。

しかし、続いて14台目の車がやってきた。それに乗っていたのは私の友人であるアレックスだった。彼は7年落ちのルノー・クリオに乗ってやってきたのだが、さすがに見劣りした。彼自身もそれを自覚しており、ただそのまま駐車するということはしなかった。彼はアクセルに足をかけたままサイドブレーキを掛けた。それはなかなか格好良く、それにホイールの汚れは一層に増した。

実のところ、価格が似たような車は広い目で見れば走りも大体似ている。BMWとメルセデスも基本的に同じだ。ルノーとフィアットも同様だ。自分の車のブレーキと近所の人の車のブレーキを見比べてみて欲しい。どちらも同じ工場で同じ人間が製造しているはずだ。パワーステアリングにも、ワイパーにも、ショックアブソーバーにも同じことが言える。

ミニクーパーSのエンジンを例に挙げよう。きっとこのエンジンはオックスフォードシャーで熟練の老職人が手塩にかけて作っていると考えている人もいるかもしれない。しかし違う。プジョー・RCZやシトロエン・DS3レーシングにも同じエンジンが載っている。

あるいは、フィアット・500を例に挙げよう。可愛らしく、シックでお洒落な、完璧な車だ。しかし、ボディを取り外せば、その中身はフィアット・パンダやフォード・Kaと全く同じだ。では、フォード・パンダやフィアット・Kaを欲しいと思うだろうか。走りは500と全く変わらない。しかし、友人の家にKaやパンダで乗り付ければ、その反応は500とは違って冷ややかなものとなることだろう。

要するに、ブランドイメージというものは非常に重要だが、それ以上に重要なのはスタイリングだ。そしてここでマツダ・CX-7の話に繋がる。

現在、クロスオーバー4x4だの、ファミリースクールカーだのSUVだのMPVだの、名前は一定しないがそんな感じの車が巷に溢れており、その大半は酷い車だ。そんな車で誰かの家に迎えに行けば、誰も乗り込もうとはしないだろう。クロスオーバーSUVに乗っている人間の友人になるくらいならピアース・モーガンの友人になった方がましだ。

クロスオーバーSUVは馬鹿げている。室内空間は普通のファミリーハッチバックと全く変わらないにもかかわらず、馬鹿な人間はこれをハッチバックよりも堅牢だと信じ込んでいる。何故だ。どちらも同じ等級のスチールを使っているし、同じ品質のプラスティックを使っているし、サスペンションコンポーネンツも全く同じだ。着座位置の高さだけを見てカラハリに行くための車だと騙されているのだろうが、実際は違う。着座位置の高さがもたらすのは操作性の低下と燃費の悪化だ。

ただ、困ったことにクロスオーバーSUVはトンカのミニカーのように見た目が良い。フォード・フォーカスよりも格好良いし、面白味がある。中身は会計士であるにもかかわらず、チェックのシャツを着てティンバーランドの靴を履いている。おかげで目立つ。そんな中でも一番格好良いのがマツダ・CX-7だ。私はこの車の膨らんだホイールアーチやウインドウラインの流れが大層気に入った。クロスオーバーSUVを購入したいと思うのであれば、この車を見てこう思うことだろう。「むむむ…なんて格好良いんだ。」 事実、私もそう思う。

しかし、この車にはいくつか問題がある。――(深呼吸)――では行こう。まず、この車は日本車なので、スコットランドの山中で酷使しても良いように作られていると想像することだろう。しかし、ドアを閉めた時の音はちゃちだし、パワーウインドウを一番上まで上げてドアフレームに当たるときの音を聞くと、ガラスが割れそうにすら感じる。それに右側のワイパーは作動する度にAピラーに当たるため、非常にイライラする。雨の日にはむしろ景色を心の目で見ながらワイパーを使わずに走ったほうがまだ快適だ。

それに、ギアチェンジだ。1速、3速、リバースはミリメートル単位で区切られており、発車しようとしても、実際に前に進むのか、バックするのか、エンストするのかは分からない。いや、きっとエンストするだろう。なぜなら、ターボディーゼルエンジンの出来が悪いからだ。

0-100加速は11秒だそうだが、ここで問題が生まれる。100の単位は何だ? 恐らくkm/hではないだろう。普通、ディーゼルエンジンはトルクなら優れているものなのだが、このエンジンにはそれすら十分にない。ほんのわずかな上り坂でさえ、シフトダウンしなければならない。そしてそこで誤ってリバースに入れてしまうわけだ。

マツダによると、CX-7の窒素酸化物排出量は他のどんな車よりも少ないそうだ。素晴らしいことではないか。しかし、現実的には誰もが二酸化炭素にしか興味を持っていない。これはイギリスではCO2ベースで課税額が決まるからなのだが、CX-7のCO2排出量は多い。それに、ガソリンモデルのAT車を買ってこれらの問題を回避することはできない。なぜなら、そんなモデルはイギリスでは販売されていないからだ。ディーゼルのマニュアルしかない。

まだ問題点の列挙は終わっていない。カーナビのスクリーンのサイズは発展途上国の切手くらいしかないし、荷室はなおのこと狭いし、リアシートに座れるのは脚を失った人間だけだ。こんな問題は車が小さければ許容できるかもしれないが、この車は巨大だ。あまりに巨大なため、地元の地下駐車場に停めることができなかった。ロンドンの一般的なパーキングメーターに停めることすらできなかった。それに何より、運転席からは車の四隅のうち四隅とも見ることができなかった。

つまりこの車は、アウターサイズは大きく、室内は狭く、作りは悪く、恐ろしく遅く、運転しづらく…この辺で終わって欲しかった。しかしそれだけではない。快適性も低い。魅力的なデザイン以外に良い所といえば、価格だけだ。装備内容を考えれば悪くない。しかし、それでもコストパフォーマンスの高い車とは言えない。

今日ではあらゆる車が基本的に同一なので、本当に酷い車というのは過去の産物だと思っていた。今でも退屈な車や醜い車、それなりに遅い車なんかはある。しかし酷い車はどうだろうか。アメリカ以外ではここ何年もそんな車に乗った覚えはない。しかし、この車は例外だ。

なので、もしどうしてもCX-7に乗らなければいけないなら、私の友人の教訓を活かして欲しい。どんな場所に行くにしてもハンドブレーキターンを忘れずに。


The Clarkson review: Mazda CX-7 (2011)