英国人気自動車番組「Top Gear」の有名司会者であるジェレミー・クラークソン氏が、番組プロデューサーとの喧嘩騒動を引き起こし、結果、同番組の契約が打ち切りになったことが報じられました。

彼の契約打ち切りを惜しむ声は日本を含め世界中で聞かれています。今回は、そんな彼が2013年に書いたトヨタ・オーリスの試乗レポートを日本語で紹介します。


Corolla

F1の最初のレースであるオーストラリアグランプリは夜中に行われる。とはいえ私は時差ボケしていたのでむしろちょうどよかった。

ところが残念なことに、雨天のため開始が遅れた。その後、開始時刻はどんどん遅れて行った。そして結局、中止が決まった。半袖シャツを着た真面目な顔の人々がテレビの前でサーキットに水が貯まっていると説明し、Twitterでは260km/hで水溜まりに車を飛び込ませるのは危険だと、誰もがこの決定に賛同していた。彼らは正しい。当たり前だ。

しかし誰もが見逃している点がある。別に絶対に260km/hで水溜まりに飛び込まなければいけないわけではない。もちろんそうする人もいるだろうし、結果的にはスピンし、クラッシュし、爆発することだろう。しかしそれ以外の人は減速するはずだ。結局、水溜まりはドライバーの度胸試しでしかない。そしてそれこそF1を見る理由ではないだろうか。

かつてF1に参戦した男たちは、モテるため、何が何でも勝ちたがった。タイヤに鞭を打ち、四輪ドリフトをした。大概の場合、彼らは二日酔いの状況で参戦していた。当時のF1は実に素晴らしかった。

ところが、今ではこのスポーツはF1をスポーツとも思わない人間達によって行われている。彼らはF1を科学だと考えている。彼らは自分たちの作った、空気力学的にデザインされ、電子工学的に調整された機械を水溜まりに沈めたがらない。CERNの科学者がヒッグス粒子を子供のビニールプールに沈めたがらないのと同じだ。

そんな人達にとって、車は車ではない。最先端の数学や物理法則の世界を探るための実験材料として扱っている。ではドライバーはどうだろうか。教えられた通りに行動するようプログラムされたロボットでしかない。F1は今やサーカスとすら揶揄されており、スカイスポーツはそんなサーカスに加入した5人の新人ドライバーに対してインタビューを行った。彼らはまるでFIAの操り人形で、ブランド物のシャツに身を包んだ誰かにプログラムされた台詞をそっくりそのまま喋っているようだった。死人のほうがまだ面白い。

私がもし彼らの中にいてレースの中止が決まったと聞いたなら、その無意味さを示すために、車に乗り込んでサーキットをパワースライドしながら走り回ることだろう。

時々、悪天候の際にはレースを中止すべきだと言うドライバーを見かける。アラン・プロストはモナコでそう言ったし、ニキ・ラウダも日本でそう言っている。しかし大抵の場合、彼らも本心では雪が降っていようとレースしたいはずだ。実に正しい。ところが問題はモノグラムの描かれたヘッドフォンをした男だ。ラップトップを小脇に抱えたおたくだ。そして人を諌めるスチュワードだ。彼らはF1をコンピュータサイエンスと企業PRとクリケットの融合という悲惨なものに変え、楽しさを奪った。

我々がF1を見るとき、人間性や情熱、感動といったものを求めている。しかし我々が実際に見ることができるのはマーティン・ウィットマーシュの髪と酷くダサいブランド物のシャツと綺麗に整列したトラックだけだ。これはテレビ放映される強迫性障害だ。

もし私がチームを運営できたらと思う。私は少し酔っ払って遅れて登場することだろう。私ならトラックを斜めに止め、そこに載せたレーシングカーのボディには男性器を描くことだろう。レース中にはドライバーのガールフレンドの尻を撫でまわし、もし勝てばピットレーンを走り回ってクリスチャン・ホーナーに向かって負け犬のハンドサインを送ることだろう。

しかし問題がある。私は勝てない。私の車は壊れて爆発してビリになることだろう。結局私は物笑いの種になるだけだ。そしてここからがカローラの話だ。

この車は何の感動も情熱もなく作られているという点で、他のどの車よりもF1レーサーに近い。論理的かつ整然と作られることだけが重視され、結果大変な成功を果たした。

フォードは1,500万台以上のモデルTを売り上げた。フォルクスワーゲンはオリジナルのビートルを2,100万台以上売り上げ、その記録を塗り替えた。しかしこれもトヨタに比べたらゼーガーとエバンズでしかない。トヨタは今までに4,000万台のカローラを売り上げている。これは世界にはカナダ人の数よりもカローラの方が多いということを意味する。

もっとも、実際はそうではない。トヨタの作るカローラは永遠に存在するわけではない。しばらくすれば――8年後には、急に調子が悪くなり、オーナーは買い換えなければならなくなる。

現在、イギリスではカローラはオーリスという名前で販売されている。何故だかは分からない。この車は可能な限り運転していてつまらない車になるように故意に設計されているかのように思えた。

この車はあまりにつまらなく、インターネットのどこを探してもこの車のレビューを見つけることはできなかった。1つとして見つからなかった。インターネットにはケーニグセグの記事も、ギルバーン・インベーダーの記事も、ピール・P50の記事も存在する。ところがどんな自動車評論家も、世界のベストセラー車がどんな車なのか分からなかったようだ。

この車がつまらないのは、キーを回せば1.8Lエンジンが音を立てて始動することを誰でも知っているからだ。ステアリングを回せば車が曲がるということを誰もが知っているからだ。そして真ん中のペダルを踏めば減速するということを誰もが知っているからだ。

操作性は悪くない。乗り心地も悪くない。それなりに経済性も高いし、それに…。こんなことを書いているとうとうとしてしまう。

フォルクスワーゲンも同じように信頼性が高く、予想通りの走りをすると考える人もいるかもしれない。けれどそれは的外れだ。ゴルフは笑顔の道化師と裸の女性が気の狂ったカラスと戦うドイツのアートハウス映画だ。一方のオーリスはコップ1杯の水道水に過ぎない。

けれど、1つ着目すべきポイントがある。私が試乗した車には無段変速機が付いていた。これについて説明しよう。レース用の自転車の後輪のギアを想像して欲しい。5つの歯車があるはずだ。一方のCVTは円錐と見なせる。つまり、ギアレシオが無限に存在するたった1つのギアがあるということだ。説明だけ聞くと素晴らしい風にも聞こえる。ところが違う。

なにせ、交差点から加速するためにアクセルを踏むと、まず最初にエンジンの回転数が上がって、それに合わせるようにスピードが上がっていく。このエンジン音がまた酷い。ボンネットの中に大怪我をした牛がいるようだ。

私の運転したオーリス(私はニュージーランド仕様車に乗ったため、その車にはカローラのバッジが付いていた)にはスポーツボタンが付いていた。つまり、この円錐には普通のギアボックスのごとくステップが付いていた。しかし、これは不快でうるさい車をさらに役立たずにした。

とはいえ、これは私にとってはとてもありがたかった。12時間の運転の中で、これが唯一考えを巡らせることができた車の特徴だからだ。おかげで私は生きていられた。もし私が普通のマニュアル車や従来的なオートマ車に乗っていれば、F1開始10分後と同じことをしていただろう。つまり、深い深い眠りについていたことだろう。

私は別にオーリスを買うべきではないと言っているわけではない。しかしもし車好きで、車に対して情熱を持っているなら、トヨタの科学的なアプローチに怒りを禁じ得ないことだろう。車好きなら、車に何か、どんなものであれ、普通でないものを求める。素晴らしいものも、狂ったものも、あるいは欠点さえも。


The Clarkson review: Toyota Corolla (Auris) GX